日本海へ“夢の跡”~幻の鉄道「名羽線」 特別編 全線開業予定ずれ込む 工事凍結までに78億円費やす 費用対効果で工事継続困難
名羽線は建設工事凍結までに78億円が費やされたが、未施工区間を残して凍結されたため、もし工事を継続して完成させるとした場合、さらに費用がかさんでいたことになる。一方、工事の進捗は遅れ、全線開業の予定時期もずれ込んでいた。
全線開業までの総事業費見込み額の変遷をみると、経済成長に伴う物価上昇によって工事費や資材費、人件費なども膨らんでおり、1959年11月の建設線決定当時は36億円だったが、66年7月の朱鞠内~上流間の工事実施計画認可当時は68億円、70年当時は73億円、73年当時は90億円、78年当時には119億円(未着工の曙~羽幌間も含めると150億円)に増加した。予算が増えても物価上昇により工事量が目減りすることもあった。
費用が膨らむ一方で、名羽線沿線は山岳の豪雪地帯のため施工可能な時期が限られたり、全国各地で新線工事が行われていたため名羽線の予算配分が抑えられたこともあり、工事の進捗は遅れ、全線開業の予定時期もずれ込んだ。また、山岳路線のため、朱鞠内~上流間のトンネルは21カ所、橋梁は53カ所もあり、施工に時間を要した。
62年2月の上流~曙間(6.8km)の工事認可当時は68年の開業予定だったが、66年7月の朱鞠内~上流間(27.9km)の工事認可当時は70年、69年当時(未施工区間16km)は75年の開業予定と遅れた。
なお、64年3月から国鉄札幌工事局に代わり、同月発足した日本鉄道建設公団札幌支社が工事を担当した。名羽線は鉄建公団の地方開発線(A線)に位置付けられた。
62年12月に三毛別~曙間(3.8km)が完成し、非営業線として羽幌炭砿の石炭輸送を開始したが、70年11月に羽幌炭砿が閉山し、70年12月には羽幌炭砿鉄道線(築別~曙~築別炭砿間、16.6km)が廃止された。
名羽線は石炭輸送が最大の目的だったため、当時、未施工区間13kmを残して工事中止が噂されたが、71年度は70年度と同額の3億5千万円の予算が付き、結局は継続となり、73年当時(未施工区間7.8km)は77年の開業予定、76年当時(未施工区間6.7km)は80年の開業予定とされた。
だが、国鉄の赤字決算続きで膨大な負債が問題とされ、運輸省は79年度の地方開発線・地方幹線(AB線)建設予算を凍結。79年7月に凍結が解除され、名羽線は78年度比3億円減の3億5千万円の予算が付いたが、その後、再び凍結された。80年度は予算ゼロとなり、80年12月の国鉄再建法施行により工事も凍結された。
この時点での進捗率は用地処理85%、路盤工事82%、軌道工事14%で、苫竜トンネル(3225m)や白地畝信号場などを含む未施工区間5kmを残して凍結された。
路盤は、羽幌側が第3白地畝トンネル(410m)の朱鞠内側坑口付近まで、朱鞠内側は深名線分岐から8.2kmほど羽幌方面へ進んだ地点まで残っている。その地点間の未着工部分に白地畝信号場や苫竜トンネルが予定されていた。
工事実施計画が認可されたのは朱鞠内~曙間(34.7km)で、鉄建公団が施工した。羽幌町では、羽幌炭砿鉄道の廃線跡を購入し、将来は鉄建公団に買い取ってもらい、名羽線の工事区間に編入してもらおうと考えていた。76年に曙~羽幌間(16.4km)の工事実施計画認可の見通しもあったが、以前の工事の遅れが影響し、その後も認可されることはなかった。ただ、着工対象の区間としては朱鞠内~曙~羽幌間(51.2km)とされていた。
事業費が膨らんでいた半面、工事の進捗が遅れ、羽幌炭砿の閉山も重なり、建設の意義が薄れてしまった名羽線。未施工区間を完成させるとした場合、さらなる費用を要することになるが、全線開業後の推定輸送密度(1kmあたりの1日平均輸送人員)が200人/日と算出されたこともあり、費用対効果を考えると工事継続は困難で、開業しても営業実績で大赤字は間違いなく、工事凍結はやむを得ない判断だったのかもしれない。
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