夢破れた全線開業~旧国鉄美幸線の軌跡 特別編 3セク化検討したが…凍結までに132億円投入 一部開業するも全通断念
名羽線と同様に美幸線も建設工事が凍結され、132億7300万円を投入しながらも全線開業は実現しなかったとともに、工事の進捗が遅れていた。
美幸線は1964年10月、美深~仁宇布間(21.2km)で一部開業し、総事業費は8億4800万円だった。
64年3月、工事は国鉄札幌工事局から日本鉄道建設公団札幌支社に移管され、鉄建公団のA線(地方開発線)に位置付けられた。
65年10月、志美宇丹~北見枝幸間(27.2km)の工事実施計画が認可され、総事業費は25億3900万円を見込み、志美宇丹~北見枝幸間は70年の完成を予定していた。
70年11月には仁宇布~志美宇丹間(30.4km)の工事実施計画が認可され、総事業費は仁宇布~北見枝幸間(57.6km)で71億円を見込み、75年の全線開業を予定していた。
後年、全線開業までの総事業費見込み額は膨らみ、73年当時で80億円、79年当時では172億円にまで増えた。
費用がかさんだ要因として、物価上昇に伴う工事費や資材費、人件費などの増加もあるが、美深町・枝幸町境界の黒岩トンネル(750m)から第2大曲トンネル(1337m)にかけての一帯は軟弱な地盤と断層があり、黒岩トンネルの建設で8億2600万円、第2大曲トンネルで5億7千万円を費やすなど、工事が難航した個所もあった。
全国各地で新線工事があり、美幸線の予算配分が抑えられたため、工事進捗は遅れ、全線開業予定時期もずれ込んだ。
73年7月の第2大曲トンネル貫通当時、未完成区間は12.4kmで、全線開業は77年を予定。75年当時は未完成区間9kmで、79年の全線開業予定。76年11月の黒岩トンネル貫通後の77年当時は未完成区間6kmで、80年の全線開業予定とされていた。
78年12月までに仁宇布~北見枝幸間の路盤、トンネル12カ所、橋梁41カ所が完成し、残るはレール敷設や駅舎建設などだったが、国鉄の膨大な累積赤字が問題となり、運輸省は79年度のAB線(地方開発線・地方幹線)建設予算を凍結した。
79年7月に凍結が解除され、美幸線の予算は78年度と同額の10億円が計上され、82年の全線開業予定と発表されたが、その後、再び凍結された。80年度は予算ゼロとされ、80年12月の国鉄再建法施行、81年9月には開業区間の美深~仁宇布間の第1次特定地方交通線承認によって、工事が凍結された。
美幸線敷設促進期成会は82年4月、第3セクターによる全線開業を目指して検討を始めたが、美深~仁宇布間では83年度、輸送密度(1kmあたりの1日平均輸送人員)が32人/日、営業係数(100円の収入を得るために必要な経費)は4780で、いずれも全国ワースト1となり、収支は1億6720万円の赤字で、営業実績は悪かった。
3セク化は85年、全線開業は87年とし、1日7往復運行を想定し、期成会と北海道がそれぞれ収支を試算した。
期成会の収支試算は87年度に1億5千万円の赤字だが、95年度には9千万円の黒字に転換。運賃値上げ率は85年に84年比2倍、以降2年ごとに20%。要員は30人としたが、特定地方交通線対策協議会で見通しの甘さを指摘され、修正案を提示した。
修正案の収支試算は87年度に1億2600万円の赤字、92年度に6600万円の赤字だが、97年度には3100万円の黒字に転換。運賃値上げ率は85年に84年比1.5倍、以降2年ごとに15%とし、要員は25人に減らした。
一方、北海道の収支試算は厳しいもので、87年度に2億9千万円の赤字、2000年度でも3億5千万円の赤字で、累積赤字は2000年度で37億円に上った。運賃値上げ率は85年に84年比1.5倍、以降2年ごとに15%。要員は39人とした。
輸送密度も期成会は87年度に264人/日だが、2000年度には418人/日に増加。北海道は87年度に207人/日、2000年度でも230人/日で、対照的な予想となった。
期成会は北海道に3セク出資を求めていたが、先行きの厳しさから見送られ、北海道は84年12月、バス転換が妥当とした。期成会も85年3月、バス転換を受け入れ、全線開業を断念し、美幸線は85年9月廃止された。
もし工事を継続させるとした場合、さらに60億円の投入が必要だった。3セク検討では岩手県の三陸鉄道を参考にしていたという。
未成区間がある美幸線も名羽線も事業費は無駄となってしまったが、そのまま工事を続けて全線開業させても、利用の少なさからさらなる赤字を生み出し、地元にとって多大な負担を背負うことになったのは間違いないだろう。
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