日本海へ“夢の跡”~幻の鉄道「名羽線」 特別編 名羽線全通促進期成会解散までの流れ 羽幌線3セク化で収支試算 名羽線工事再開へ希望的観測
名羽線全通促進期成会は、名寄市、幌加内町、羽幌町によって1952年3月22日発足。全線開業を目指して運動や要望を行い、建設工事が進められていたが、79年に予算凍結、80年から工事も凍結され、期成会は87年10月13日に解散した。
工事凍結から期成会解散までは7年の歳月が流れており、その間、81年12月15日に日本鉄道建設公団羽幌鉄道建設所の業務が休止し、82年には同建設所が閉鎖されたため、この時点で工事再開の見込みは事実上、消えた。
しかし、期成会はこの時には解散しなかった。当時、名寄市と幌加内町は深名線(深川~名寄間)、羽幌町は羽幌線(留萌~幌延間)の存廃問題に揺れ、既存路線の死守に全力を注いでいたため、名羽線全通の活動までは手が回らなかった。
国鉄は82年11月22日、羽幌線を廃止対象の第2次特定地方交通線(輸送密度2千人未満)として運輸省に申請し、84年6月22日に承認された。一方、深名線は並行道路が未整備だったため、申請から除外されたが、後に道路整備が完了したため、95年9月4日で廃止された。
羽幌線沿線8市町村は83年2月14日、国鉄羽幌線存続連合期成会を結成した。84年12月21日、特定地方交通線対策協議会への参加を決めた。
85年9月11日の第2回協議会では、民営鉄道並みの運営内容で、第3セクターとして経営した場合の収支試算を羽幌線全線と留萌~羽幌間の2案で行うことを決めた。
85年12月3日の第3回協議会で収支試算が示され、全線3セクとした場合、営業係数は1279(84年度)から421へ好転するが、1年目は6億9千万円の赤字となり、転換交付金(1km当たり3千万円)42億3300万円から転換に伴う投資額を差し引いた残額26億2700万円を基金として運用しても7年目で使い果たし、8年目以降は赤字となった。
留萌~羽幌間を3セク、羽幌~幌延間をバス転換とした場合は、7億6100万円の基金を5年目で取り崩し、6年目から赤字に転落するという厳しい試算結果となった。
一方、全線バス転換した場合、毎年1億5千万円前後の赤字が見込まれるが、19億7900万円の運営基金(初年度額)によって赤字補填できるという試算結果だった。
3セク化は多額の赤字を抱えることになり、経営の永続は不可能なことから鉄道存続を断念し、86年8月6日の第4回協議会で全線バス転換を表明した。
羽幌線は87年3月30日で廃止された。そのため、名羽線の全線開業の可能性は完全に消滅し、名羽線全通促進期成会は既に役割を終えたとして、87年10月13日に解散した。上部組織の北海道新線建設促進期成連合会、鉄道新線建設促進全国協議会からも脱退した。
工事が凍結された地方開発線・地方幹線(AB線)は、3セクなど沿線自治体が負担する形で運営することになれば、工事を再開するとされていた。
もし羽幌線が存続となれば、名羽線の工事を再開させ、3セク化した上で全線開業させるという希望的観測も考えられたようだが、名羽線の収支試算は行われなかった。全通後の推定輸送密度は200人に過ぎず、開業しても経営は苦しかったと思われる。
工事凍結以降、全通の可能性は極めて低かったが、名羽線の運命は羽幌線の動向が鍵を握ったとも言えよう。
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