日本海へ“夢の跡”~幻の鉄道「名羽線」 特別編 羽幌炭砿(後編)異常出水や断層突入 再建検討されるも閉山
「スクラップ・アンド・ビルド政策」で「ビルド鉱」として生き残った羽幌炭砿。羽幌本坑では新たな選炭場とホッパー、運搬立坑が完成した。1965年度(昭和40年度)は年産100万tと再び大台を突破し、66年度110万8千t、67年度111万4400t、自走枠・ホーベル採炭開始による完全機械化が実現した68年度は過去最高の113万3千tに上った。
一方、築別炭砿東坑では64年春からベルト大斜坑の建設工事を開始したが、異常出水と泥噴出の影響で67年2月、工事継続を断念した。67年4月には東坑の最下層採炭稼働区域でも泥と出水が見られ、炭質の悪化で歩留まりも低下した。この頃から先行きに不安を感じ、退職者が増え始めた。
築別炭砿の北側には58年11月4日、天の沢坑が開坑。水力採炭を採用したが、作業効率低下や排水逆流もあり、66年3月末で閉山した。
築別炭砿東坑の出水が酷く、深部開発を断念し、新区画での採炭が困難となり、69年3月末で閉山した。出炭量が急減し、会社の資金繰りも苦しくなった。坑内員の不足に加え、断層への突入で坑内条件悪化も重なり、69年度は年産86万5800tにとどまった。同年、社長は横田周作に代わった。
70年(昭和45年)6月末、築別炭砿西坑も断層や異常出水の影響で休山した。羽幌本坑と上羽幌坑に集約し、年産目標を85万tに引き下げたが、閉山の噂が流れ、退職者が続出し、出炭量減少は止まらなかった。資金不足で9月の賃金も全額支給できるめどすら立たなかった。
70年8月31日、石炭販売子会社の北栄物産が倒産。70年9月2日には羽幌炭砿鉄道株式会社が会社更生法を申請し、倒産した。負債総額は73億円だった。
当初は新会社設立による再建も検討された。羽幌炭砿の石炭は暖房用や電力用として販売地盤が強く、道内の暖房炭需要(70年度は約200万t)のうち3分の1を供給しているため、閉山すると暖房炭が大幅に不足すること、主力の羽幌本坑の合理化により採炭は10月から可能で、年産80万~90万t体制に到達できることなどが理由に挙げられた。

しかし、倒産により退職者が増加して今後の人員確保が困難となり、出炭の大幅減で仮に再建されても累積負債を返済するめどが立ちにくいこと、今後の石炭合理化政策を乗り越え、再び断層へ突入した時に出炭量を確保できるかどうか見通しがつかず、再建は断念した。
70年11月2日に閉山し、同時に「企業ぐるみ閉山」に向け「石炭鉱山整理特別交付金」を申請した。羽幌炭砿鉄道線も70年12月14日に最終営業運行、15日廃止された。19日に閉山式・労働組合解散式が行われ、ヤマの灯は消えた。
70年度は年産37万4425tで、築別炭砿開坑の40年度からの総出炭量は1540万8562t。地下にはまだ3千万t以上の石炭が残っていた。
羽幌炭砿の一帯はアパートや学校、病院、商店、劇場などで市街地を形成し、最盛期の65年は人口1万2456人を数えた。70年4月は1万1462人だったが、閉山の噂が飛び交い、70年9月には1931人と激減。閉山後の72年には99人となった。
現在は上羽幌坑の地域に農家十数人いるが、羽幌本坑と築別炭砿は無人地帯で、炭鉱関連施設などが今も一部で残っているが、廃墟と化している。
名羽線は石炭輸送が最大の目的で、閉山後は建設の意義が薄れ、工事中止が噂されたが、71年以降も工事は継続。だが、80年(昭和55年)12月の国鉄再建法施行で工事が凍結され、未成に終わった。
(敬称略)

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