夢破れた全線開業~旧国鉄美幸線の軌跡 特別編 元美深町長・長谷部秀見(後編) 全通への運動むなしく 廃止当日、病気で立ち会えず
「赤字線日本一」で有名となった美幸線。元美深町長の長谷部秀見はそれを逆手に取り、日本一返上を目指し、自ら切符を売りさばいた。
「松山観光めぐり」、後の「美幸線びふか松山湿原まつり」は毎年、大盛況で列車も満員だった。切符販売も東京や大阪、札幌など大都市で奔走し、話題となった。
切符は売り上げが美幸線に算入される仁宇布駅で事前に購入し、販売会場に持ち込んだ。美深駅で購入すると宗谷本線の収入となる。
鉄建公団では1979年(昭和54年)7月6日、国鉄、運輸省、地方自治体との協議が順調に進めば、美幸線は1982年度に全線開業できる―と発表したが、国鉄の膨大な赤字が影響し、80年度以降、予算や工事は凍結された。
長谷部は「130億円も資本が投下されているのに、全線開通しないで廃止するのはもってのほか。バス路線に切り替えるという発想は豪雪地帯の実情を知らないナンセンスなこと。政府はもっと地域の声を聞いてほしい」と訴えた。
しかし、営業係数は次第に悪化し、83年度は4780、84年度も4731と連続全国ワースト1。第3セクター化による全線開業も検討されたが、採算性の問題で道からの出資が見送られ、断念した。
85年(昭和60年)3月28日、バス転換を受け入れた後、長谷部は「国の権威を笠に着たやり方は壁が厚かった。悔しくて夜中に目が覚めた。国鉄再建法は酷いものだ。住民に申し訳ない」。
85年8月29日の会見でも「なりふり構わず努力してきたが、こうした事態になり残念なことだ。『泣く子と地頭』には勝てなかった。頑張っていれば強制的に廃止され、これ以上やると転換交付金などに不利となり、やむなくバス転換を承服せざるを得なくなった」と無念さをにじませた。 長年にわたる廃止反対と全線開業への運動もむなしく、85年9月17日、美幸線は廃止された。
長谷部は廃止直前の9月5日から急性肝炎で旭川市内の病院に入院。廃止当日のセレモニーに立ち会えなかったが、病床で「元気だったとしても、お別れには立ち会いたくなかった。雪深い町から鉄路をなくすのは生活路線の廃止に等しい。国や道は後世に大きな禍根を残すだろう」とこぼした。
美幸線存続を目指し、自ら切符販売やPRで先頭に立つなど、エネルギッシュに活動した長谷部。ユニークなアイディアをもって、全国的にも有名な町長だった。
(敬称略)

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