興部~雄武間が興浜南線、浜頓別~北見枝幸間が興浜北線として開業し、その間の雄武~北見枝幸間の着工を目指していたが、太平洋戦争突入により延長工事は棚上げにされた。興浜南・北線とも不要不急線としてレールが撤去されたが、終戦間もない1945年(昭和20年)12月5日、営業運行が再開された。
沿線住民の利便性向上を図るため、興浜南線は48年7月1日に栄丘仮乗降場(雄武町、56年9月20日に駅昇格)、55年12月25日に元沢木、雄武共栄(以上雄武町)の各仮乗降場、興浜北線は56年2月26日に頓別、豊浜(以上浜頓別町)、山臼(枝幸町)の各仮乗降場が開設された。
また、55年(昭和30年)12月20日から興浜南線、56年7月1日から興浜北線にレールバス(小型気動車)が導入され、旅客列車はSL(蒸気機関車)から置き換わった。66年3月24日から南線、同年4月8日から北線に一般形気動車を導入し、所要時間短縮が図られた。一方、貨物列車からSLが姿を消したのは南線が75年3月、北線は同年5月だった。
興浜線(興部~雄武~北見枝幸~浜頓別間)敷設の意義として、農畜産物や林産物、水産物の輸送をはじめ、湧網線(中湧別~網走間)、名寄本線(名寄~興部~中湧別~遠軽間)の一部、天北線(音威子府~浜頓別~南稚内間)の一部と連絡し、稚内や網走を中心とする産業経済圏がそれぞれ結び付くことにより、両地域相互の経済交流の促進を通して、農林水産業や未開発地域の将来の発展に大きな効果をもたらすとされた。
興浜線が全通すれば、網走~稚内間の距離は従来の名寄本線、宗谷本線経由と比べて80kmほどの短縮となった。
戦後、雄武~北見枝幸間の着工に向けた陳情、請願が再開されるとともに、満州(現・中国東北部)や樺太(現・サハリン)からの引き揚げ者が雄武町音稲府、幌内、枝幸町音標、風烈布、乙忠部などオホーツク海沿岸に入植したことから、開拓地への便宜を図るため、興浜線の全通が必要とされていた。さらに、雄武町元稲府、枝幸町山臼などでは魚田開発計画も進められていた。
雄武~北見枝幸間は51年(昭和26年)から国鉄による経済調査やルート踏査が始まり、鉄道建設審議会で56年2月24日に調査線、57年4月3日に建設線として認められ、58年7月20日、雄武~北見音標間の着工が認可された。58年10月から国鉄札幌工事局による測量を開始。60年4月13日、雄武~北見枝幸間の全線着工が認可された。
61年9月に雄武駅で起工杭打式が行われ、62年7月にルートが確定し、雄武~北見音標間の用地買収が始まり、63年までに77%の用地を確保した。
実際の建設工事着手は64年3月23日の日本鉄道建設公団の発足後となり、A線(地方開発線)として、65年4月7日、雄武~北見音標間(18.5km)の工事実施計画が認可された。66年(昭和41年)5月25日、雄武町内で起工式が行われ、鉄建公団雄武鉄道建設所によって雄武市街地から工事がスタートした。当時は北見音標まで71年、北見枝幸までは75年(昭和50年)の開業を目指していたという。
(続く)
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