枝幸町内には、興浜線(興部~雄武~北見枝幸~浜頓別間)と美幸線(美深~仁宇布~北見枝幸間)の二つの未成線があったことは少し触れてきたが、ここで両路線の沿革や背景を振り返りたい。
両路線とも農畜産物や林産物、海産物の輸送といった産業振興に期待をかけた路線だったが、先に予定線となったのは興浜線で1922年(大正11年)4月15日のことだった。35年(昭和10年)9月15日に興部~雄武間(19.9km)が興浜南線、翌36年(昭和11年)7月10日に浜頓別~北見枝幸間(30.4km)が興浜北線として部分開業した。戦時中の44年11月1日、興浜南・北線とも不要不急線とされ、営業運行が休止されたが、終戦直後の45年12月5日、南・北線とも営業運行を再開した。
一方、内陸・山間ルートの美幸線が予定線となったのは戦後の53年(昭和28年)8月1日のことで、当初はオホーツク海沿岸ルートの興浜線が一足早く整備が進んでいた。
興浜線の雄武~北見枝幸間、美幸線が調査線となったのは同じ56年2月24日、建設線となったのも同じく57年4月3日。しかし、先に着工が認可されたのは美幸線の美深~仁宇布間で57年4月22日のことだった。興浜線の雄武~北見音標間の着工認可は58年7月20日と1年あまり遅れた。
ここから美幸線の方が先に整備が進むようになり、58年7月30日から美深~仁宇布間の建設工事がスタート。日本鉄道建設公団の発足(64年3月23日)を挟み、64年(昭和39年)10月5日に美深~仁宇布間(21.2km)が部分開業となった。
その後は鉄建公団のA線(地方開発線)として、志美宇丹~北見枝幸間(27.2km)が65年10月21日に工事実施計画が認可され、同月30日に着工。仁宇布~志美宇丹間(30.4km)は70年11月27日に工事実施計画が認可、12月7日に着工した。
興浜線の建設工事着手はさらに遅れて鉄建公団発足後となり、A線として65年4月7日に雄武~北見音標間(18.5km)の工事実施計画が認可され、66年5月25日に着工。74年5月31日に北見音標~北見枝幸間(33km)の工事実施計画が認可、76年から西音標付近、78年から風烈布付近で着工した。
74年(昭和49年)時点で美幸線は77年、興浜線は80年の全線開業が予定されていた。
両路線の工事進捗の差について、あくまでも推測の域を出ないが、美深町内で天塩川木材工業(97年11月28日倒産)を経営していた自民党衆議院議員で、運輸大臣や労働大臣を務めた松浦周太郎、美深町長で後に北海道議会議員となり、美幸線敷設促進期成会長を務めた西尾六七の存在によるものが大きいと思われ、政治力の差も要因ではなかったかと考えられる。
また、枝幸町内では名寄・旭川方面へ距離的に近い美幸線の敷設促進に期待が大きかったものと思われる。ただ、同じ枝幸町内でも南部の風烈布、音標地区では興浜線経由の方が名寄に近く、興浜線敷設促進期成会を立ち上げて早期開業へ運動を推進していた。
建設工事の当初予算額をみても美幸線が大きく上回り、75年度では美幸線が10億円に対し、興浜線は1億5千万円に過ぎなかった。
工事凍結までに投入された総事業費は美幸線が132億円に対し、興浜線は12億円と大きな差があった。美幸線は仁宇布~北見枝幸間の路盤や橋梁、トンネル12カ所が全て完成していた。一方、興浜線は雄武~北見音標間の路盤や橋梁、雄武トンネルは完成したが、北見音標~南枝幸信号場間では北見音標駅予定地北側、風烈布駅予定地北側を除いて未着工に終わった。南枝幸信号場~北見枝幸間は美幸線の工事として着手した。
国鉄が膨大な負債を抱えていたため、運輸省は鉄建公団に対し、AB線(地方開発線・地方幹線)の79年度(昭和54年度)建設予算を凍結した。鉄建公団では、全線開業後の推定輸送密度と79年時点の着工率を基準とした予算配分のランク付けを行ったことで、予算凍結は解除された。
美幸線は推定輸送密度300人/日、着工率100%となり「開業後の推定輸送密度が1千人未満であって、着工率が90%以上の路線」として第3グループに位置付けられ、79年度当初予算は前年度同額の10億円が計上された。

ただし「関係地方公共団体から、第3セクター等への委譲について具体的な意思表示のあった路線は、工事を継続する」との条件が付いていた。
一方、興浜線は推定輸送密度が600人/日と美幸線より高いものの、着工率は51%にとどまっていたため、最低の第4グループに位置付けられ、工事継続に必要な予算配分に抑えられ、79年度当初予算は前年度比5千万円減の1億円とされた。予算配分のランク付けでも差が生じていたのである。
79年7月6日に予算凍結は解除されたが、実際には予算執行されず、工事は休止されたままで、80年度の当初予算はゼロとなり、80年12月27日の「国鉄再建法」施行によって工事は凍結された。
両路線とも第3セクター化が検討されたが、収益が見込めず断念した。部分開業区間はバス転換を受け入れ、85年(昭和60年)7月1日に興浜北線、同月15日に興浜南線、9月17日には美幸線が廃止された。
もし両路線が全線開業していれば、枝幸町は鉄道の要衝として発展するはずだった。北見枝幸駅から枝幸高架橋(91年解体)を経て、南枝幸信号場を分岐点として美幸線で名寄・旭川方面へ、興浜線で紋別・網走方面へ繋がることになっていた。また、同駅から北へ稚内方面にレールが伸びていた。
宗谷本線や天北線(89年5月1日廃止)、名寄本線(同日廃止)などと鉄道ネットワークを築くとともに、旅客や貨物の輸送を通して産業振興や経済交流、観光推進などが期待されただけに、興浜北線の行き止まり路線で終わったため、無念さも感じられる。
興浜線の部分開業(興浜南線、興浜北線)、雄武~北見枝幸間の建設工事開始と凍結、興浜線の3セク化、オホーツク本線構想について記してきましたが、美幸線や名羽線と比べると、まとまった記録は少ないものと思われ、7回にわたって連載を続けてきました。
工事凍結から40年以上、興浜南・北線廃止から37年が経過しており、当時を知る人たちは少なくなっています。
また、工事の進捗が遅れ、未着手だった区間も長かったため、あまり目立っていなかったのも事実です。
オホーツク海沿いにも未成線「幻の鉄道」があったことを伝えていければと考えております。お付き合いいただき、どうもありがとうございました。
(終わり)
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