名羽線の建設工事は、羽幌側が第3白地畝トンネル(延長410m)朱鞠内側坑口付近(羽幌起点36.8km付近)まで、朱鞠内側は深名線分岐から8kmほど羽幌方面へ進んだ地点(羽幌起点42km付近)まで進められたが、1980年12月27日の国鉄再建法施行により、苫竜トンネル(延長3225m、羽幌起点37.975~41.2km地点)や白地畝信号場(羽幌起点37.1km地点)などの未着工部分5kmほどを残し、工事は凍結された。
70年11月2日の羽幌炭砿閉山以降、名羽線の沿線人口は大きく減少。その他にも、朱鞠内や羽幌町内の奥地では農家が入植したが、冬は酷寒と豪雪で気候が厳しく、作物もあまり育たないため相次いで離農した。 雨竜炭田には朱鞠内炭鉱があったが、経営者は変遷が続いた。57年4月に幌加内鉱業株式会社を立ち上げ、採炭計画として月産2千t、名羽線開業5年後には年産20万tを目標としたが、石炭不振の影響で60年代前半に休止。朱鞠内川上流には石油の鉱区も設定されたが、深度が5千mもあり、コスト面で採掘は断念した。
当初の路線計画では、中の二股や奥朱鞠内といった奥地にも駅の設置が予定されていた。 予算凍結後も路盤の地滑り防止やトンネル補強の保全工事が行われていたが、81年12月15日で日本鉄道建設公団羽幌鉄道建設所の業務は休止。82年に同建設所は閉鎖され、工事再開の見込みは消滅。名羽線は未成に終わった。
名羽線と接続する予定だった羽幌線(留萌~羽幌~幌延間)は84年6月22日、輸送密度低下に伴い第2次特定地方交通線として承認。87年3月30日で廃止された。 名寄市、幌加内町、羽幌町で組織した名羽線全通促進期成会も、全線開業の可能性が消え、既に期成会の役割は終えたとして、87年10月13日で解散した。 また、深名線(深川~朱鞠内~名寄間)も輸送密度は低かったが、並行道路が未整備だったため当面存続。だが、道道688号名寄遠別線の名母トンネル(幌加内町母子里~名寄市瑞穂間)が91年9月30日に開通し、道路整備が完了したことや列車利用客の減少もあり、95年9月4日で廃止された。
名羽線の用地は89年4月に鉄建公団から国鉄清算事業団へ引き継がれ、93年から幌加内町、羽幌町に売却された。未成区間の現状を見ると、路盤は大半が残り、樹木や草やぶに埋もれている。 橋梁は人家に近い所で撤去されたが、山奥は羽幌側で第2二股川橋梁(延長94m)から東側は残り、中の二股川橋梁(延長106m)、第1カラセミ沢橋梁(延長112m)、第2カラセミ沢橋梁(延長66m)などが現存。朱鞠内側は石油沢橋梁(延長48m)などの橋脚が残っている。 トンネルは大半が塞がれたが、羽幌側の第2二股トンネル(延長581m)から第8二股トンネル(延長678m)までは、砕石販売業のマキタ産業が橋梁も含め専用道としていたため開放されている。 以前は同社の通行許可が必要だったが、2009年2月に倒産。現在は森林管理局の入林許可だけで通行できるが、一帯はヒグマの生息地である。
羽幌炭砿鉄道では、留萌港まで石炭を運搬していたが、羽幌線の急勾配や線形の悪さ、牽引定数の少なさ、豪雪や突風により運休が度々発生し、輸送に問題があることを理由に、築別駅から海側へ専用線を敷設し、築別港を整備するとともに、港付近には石炭の液化施設を建設する計画があったと推測される。 名羽線の三毛別駅(羽幌本坑)から石炭を輸送し、液化燃料とともに築別港から輸出する構想が実現すれば、安定的な運炭を行えることで流通炭を切らさず、同時に日本海の海産物や内陸部の木材輸送の活発化も期待され、名羽線建設の意義がさらに高まっていたのかもしれない。
(続く)
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