夢破れた全線開業~旧国鉄美幸線の軌跡 特別編 元美深町長・長谷部秀見(前編) 赤字日本一を逆手に 自ら切符販売やPRも
美幸線とは切っても切り離せない人物がいる。元美深町長の長谷部秀見だ。
長谷部は1913年(大正2年)6月23日、美深町の生まれ。美深尋常小学校高等科を卒業後、家業の農業に従事。58年(昭和33年)に美深町農協組合長に就任。59年から63年まで美深町議会議員を1期務めた。
67年(昭和42年)の美深町長選挙で初当選し、87年まで5期20年務めた。88年に勲四等瑞宝章を受章。後に旭川市内へ移り、98年(平成10年)に美深町名誉町民。2000年6月12日、腎不全のため逝去、86歳だった。
町長就任直後の67年10月、国鉄は赤字路線廃止の方針を明らかにし、美幸線も廃止候補とされた。美幸線敷設促進期成会では廃止反対と北見枝幸まで全線開業の早期実現へ決議文を国鉄に送付した。
この出来事が長谷部と美幸線をつなげる発端となった。
美幸線は64年(昭和39年)10月5日に一部開業したが、美深~仁宇布間だけでは利用が伸びず、営業係数(100円の収入を得るために必要な費用)も高く、72年度に3270と初の全国ワースト1となった。73年度は2883で2位だが、74年度は3859、75年度も3233と連続ワースト1だった。
美幸線は「赤字線日本一」と知られ、注目されるようになった一方、「美幸」という縁起の良さから切符を買い求める人が相次いだ。
当時、長谷部は「美幸線は枝幸まで全線開通の上で初めて真価を問うべき。部分開通の現段階で既成路線と同列に営業収支を議論するのは誠に心外だ。しかし、切符ブームは大いに歓迎。仁宇布の近くには素晴らしい観光地の松山湿原があり、これを契機に全国から観光客が集まってくれたら大いに結構」と語った。
赤字日本一を逆手に取り、美幸線をPRしながら誘客する手法を発揮。76年(昭和51年)7月16日から18日まで美深町と美深町観光協会主催の「松山観光めぐり」を初めて開催。3日間で約5千人が訪れ、遠くは札幌や東京からも足を運んだ。普段は1両の閑散とした列車だが、イベント期間中は2両に増結し、臨時列車も増発、車内は満員だった。

営業係数は76年度に2608で4位だったが、77年度は2811と再びワースト1に。そこで、長谷部はさらなるPR作戦として、自ら美幸線の切符を売ることを決め、78年10月8日、東京・銀座の三越デパート前で販売した。
事前に美深~仁宇布間の乗車券(片道220円)3千枚を購入して用意。総額で66万円だが、77年の美幸線の収入総額(317万円)の2割以上に及んだ。
東京での切符販売は人気を博し、完売となった。78年度の営業係数は2472で4位だった。
全線開業の予定時期がずれ込んでいたが、日本鉄道建設公団は79年(昭和54年)7月6日、美幸線は82年度に開業できる―と発表。長谷部は「半世紀に及ぶ町民の願いがかない、肩の荷が下りた」と語った。
しかし、その後、期待が裏切られるように予算や工事が凍結された。
(敬称略)


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