雄武~北見枝幸間(51.5km)の建設工事が進められてきたが、開拓地では離農者が相次ぎ、過疎化も進むようになった。このような背景は興浜線の工事進捗にも影を落とした。
興浜線建設工事の当初予算額は以下に示した通りで、1973年度(昭和48年度)から毎年1億5千万円が計上されていたが、美幸線の73年度8億2千万円、74年度9億円、75年度から毎年10億円、名羽線の73年度5億円、74年度5億5千万円、75年度から毎年6億5千万円と比べると少なかった。
また、75年度当時の総事業費は87億円が見込まれていたが、同年度までに投入されたのは9億200万円にとどまり、工事の進捗が遅れていた。
枝幸町内では当時、名寄・旭川方面へ距離的に近い美幸線(美深~仁宇布~北見枝幸間、78.8km)の敷設促進に期待が大きかった。美幸線は64年10月5日に美深~仁宇布間(21.2km)が部分開業した。その後も仁宇布~北見枝幸間(57.6km)の建設工事が進められ、78年12月までに路盤やトンネル、橋梁が全て完成し、あとはレール敷設と駅舎建設などを残していたが、工事は凍結され、未成に終わった。
興浜線については、76年6月の枝幸町議会定例会で「興浜線の全線早期完成を要請する決議」を可決した。これは全線開業によって輸送密度を高め、廃止対象路線とならないよう事前に手を打つという狙いがあった。
一方、国鉄は赤字が増大し、膨大な負債を抱えていたことが問題とされ、運輸省は日本鉄道建設公団に対し、AB線(地方開発線・地方幹線)の79年度建設予算を凍結した。道内では興浜線をはじめ、美幸線、名羽線などのA線が凍結対象となった。
鉄建公団では全線開業後の推定輸送密度と79年時点の着工率で予算配分のランク付けを行ったが、A線の興浜線は推定輸送密度600人、着工率51%にとどまっていたため、ランク付けでは最低の第4グループとなり、工事継続に必要な予算配分に抑えられ、79年度当初予算は前年度比5千万円減の1億円とされた。
79年7月6日に予算凍結が解除されたものの、予算は執行されず、工事は休止状態となった。80年度の当初予算はゼロとなり、80年12月27日に国鉄再建法の施行により、工事が凍結された。
未成区間は雄武駅から北見音標駅予定地北側2kmほど地点までの路盤と橋梁、風烈布駅予定地北側の築堤、風烈布川橋梁の橋脚が完成していたが、その他の工事は未着手だった(南枝幸信号場~北見枝幸間は美幸線の工事として着手)。
雄武~北見枝幸間では用地52%、路盤42%、軌道0%の工事進捗率だった。工事凍結までに事業費は12億円が投入されていた。
81年(昭和56年)9月18日、興浜南・北線ともに廃止対象の第1次特定地方交通線(営業キロ30km以下で輸送密度2千人未満、または営業キロ50km以下で輸送密度500人未満)として承認された。
興浜南・北線の経営実績を以下に示したが、営業係数や輸送密度は年々悪化した。
なお、興浜南線の営業係数は83年度2325(全国ワースト9位、赤字額5億698万円)、84年度2533(全国ワースト6位)。輸送密度は83年度203人/日、84年度184人/日。
興浜北線の営業係数は83年度2542(全国ワースト5位、赤字額4億7778万円)、84年度2939(全国ワースト3位)。輸送密度は83年度111人/日、84年度103人/日だった。
しかし、沿線自治体は鉄道存続を諦めてはいなかった。釧路から稚内までのローカル線を有機的に結ぶ「オホーツク本線構想」、興浜線の第3セクター化を打ち出したのである。
(続く)
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