石炭輸送で全盛期迎える 旅客も仮乗降場設置で利便性向上
戦前は沿線に炭鉱の開坑が相次ぎ、石炭輸送が増え始めた。また、私鉄や支線の開業もあり、旅客や貨物の輸送が盛んとなった。
戦後も炭鉱が開坑し、一時期閉山していた留萌市内の豊平炭鉱が1953年(昭和28年)5月から操業を再開。沼田町内の太刀別炭鉱が61年(昭和36年)1月に開坑した。小平町内の天塩炭鉱(達布炭鉱)は北炭(北海道炭礦汽船株式会社)が経営していたが、人造石油の生産計画が中止されたため事業が行き詰まり、51年(昭和26年)4月に天塩炭礦鉄道株式会社へ譲渡した。
さらに林業や漁業も伸展し、木材を留萌港へ、海産物を内陸へ運び、留萌本線は全盛期を迎えた。
旅客の利便性向上も図られ、55年(昭和30年)7月20日に北一已駅を開設。その後、国鉄旭川鉄道管理局により56年(昭和31年)7月1日に北秩父別、真布の各仮乗降場、63年(昭和38年)12月1日には東幌糠、桜庭、阿分、信砂、朱文別、箸別の各仮乗降場を開設した。
56年11月19日から気動車(ディーゼルカー)による旅客列車運行が開始され、SLに比べてスピードアップした。63年12月1日には客貨混合列車が廃止され、旅客列車は全て気動車となった。
戦時中、石狩川の対岸に函館本線があるために不要不急線とされ、営業休止していた支線の札沼線は、46年(昭和21年)12月10日に石狩当別~浦臼間、53年11月3日に浦臼~雨竜間、56年11月16日に雨竜~石狩沼田間が営業再開し、桑園~石狩沼田間の全線で運行再開となった。
また、戦争の影響で延伸工事が中断していた支線の羽幌線は、57年(昭和32年)11月6日に築別~初山別間、58年(昭和33年)10月18日に初山別~遠別間が開業。幌延~遠別間の天塩線と統合し、留萌~幌延間で全線開業となった。
速達列車の運行も始まり、61年1月15日から準急「るもい」が小樽~深川~留萌~築別間(函館本線、留萌本線、羽幌線経由)で運行開始。「るもい」は62年(昭和37年)5月1日から小樽~深川~留萌~増毛間の運行となった。63年12月1日から旭川~深川~留萌間で2往復の運行となり、小樽~増毛間の準急列車は「かむい」に改称され、小樽~旭川間の編成と深川駅で併結または切り離しとなった。
62年5月1日から急行「はぼろ」が札幌~深川~留萌~幌延間(函館本線、留萌本線、羽幌線経由)で運行開始。65年(昭和40年)10月1日から準急「ましけ」が札幌~深川~留萌~増毛間で運行開始し、都市間の所要時間短縮が図られた。66年(昭和41年)3月5日には運行距離100km以上の準急列車は急行列車に変更され、「るもい」「ましけ」は急行となった。この頃が旅客列車の本数が多い時期で、夏には海水浴客向けの臨時列車も運行していた。
しかし、60年代からエネルギー転換が徐々に進み、従来の石炭から石油が燃料のメインとなった。その影響で沿線の炭鉱では合理化が進み、出炭量も減少。後に閉山が相次ぎ、貨物輸送に陰りが見えるようになった。
(続く)


道北の求人情報
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
1級土木技術者
300,000円〜400,000円
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
2級土木技術者
250,000円〜330,000円
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
舗装技術者(1級資格保持者)
300,000円〜380,000円
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
舗装技術者(2級資格保持者)
240,000円〜330,000円
北海道名寄市東4条南9丁目4-9
大沼左官工業 株式会社
北海道名寄市東4条南9丁目4-9
変形労働時間制
左官工
168,000円〜306,600円
名寄新聞を購読希望の方は
名寄新聞 購読料のご案内通信員募集のお知らせ道北ネット ビジネスデータ トップページに戻る