鉄道構想は戦前から
戦後、敷設運動が本格化
かつて美深町内には「日本一の赤字ローカル線」として知られた旧国鉄美幸線があった。1964年に開業し、美深駅と仁宇布駅を結んでいたが、本来は北見枝幸駅まで計画されていた。
全線開業を目指し、枝幸町内でも建設工事は進められたものの、国鉄の膨大な負債が問題とされ、美幸線も含め利用の少ないローカル線は廃止する方針となり、工事は凍結。第3セクターによる全線開業も検討されたが、収益が見込めず断念。85年に開業区間が廃止され、工事凍結区間は未成に終わった。
今でも廃止、未成区間に路盤、橋りょう、トンネルなどが残っている所もあるが、廃止から37年が経ち、忘れられた存在になりつつある。
ここでは構想から着工、開業、建設続行、工事凍結、廃止、現在を振り返りたい。美深町史、歌登町史、枝幸町史の各巻、日本鉄道建設公団鉄道新線建設工事誌、過去の名寄新聞を参考図書とした。(文中敬称略)
美深と枝幸を結ぶ鉄道の構想が具現化したのは、1931年4月のことで、美深町長・堀捨次郎、同町議会議員・蓮沼靖ら9人で最初の現地踏査を実施。仁宇布から上徳志別、志美宇丹、歌登、枝幸を踏査した。
35年5月9日、堀と枝幸村長・滝本瑞竜が鉄道省に請願。35年6月には同省が現地測量を行う段階までこぎ着け、地元では敷設促進運動も進められたが、太平洋戦争に突入し、42年ごろ中断した。
戦後の46年4月5日、美深町長・山田為吉、歌登村長・平田常太郎、枝幸村長・鈴木五郎が鉄道敷設運動の再開を打ち合わせ。48年9月に戦後初の現地踏査(全行程5日間)が行われ、美深町長・西尾六七や同町議らが参加。運輸省、建設省、衆議院、参議院へ請願書を提出し、48年11月30日に衆参両院で採択された。
49年4月5日の美深町、歌登、枝幸町の3町村代表合同会議で運動推進に足並みをそろえた。49年4月と9月には運輸省札幌地方施設部の経済調査が行われ「産業開発路線として有望である」と目された。50年8月9日から9月4日まで国鉄旭川鉄道管理局の測量調査も行われた。
51年6月25日、運輸省の諮問機関で、新線建設を答申する「鉄道建設審議会」が設置。この時点では美幸線は予定線にも入っておらず、西尾は51年7月10日、総理官邸で開かれた北海道開発審議会で、敷設促進を陳情した。
52年7月2日の鉄道建設審議会で、美幸線は予定線の候補となり、53年8月1日、予定線として認められた。
各町村では独自の鉄道敷設促進組織が活動していたが、52年9月17日には美深町、歌登町、枝幸町の3町村合同による「美幸線敷設促進期成会」が設立された。
しかし、52年12月24日の同審議会では「国家財政の関係で54年度は新線の着工はしない」との結論を出した。
美幸線が調査線となったのは56年2月24日にずれ込んだ。56年6月から10月にかけて国鉄や運輸省から経済調査班や測量班が来訪した。
当時、全国では既に14路線で施工。新線着工は5、6路線という見通しで、この中に食い込むのは容易ではなかったが、57年4月3日の同審議会で美幸線を「建設線とする。美深~仁宇布間は直ちに着工を可とする」と答申。4月22日の国鉄理事会で着工を正式決定した。
57年7月4日、美深駅で美幸線着工記念式典が挙行。杭打ちを行い、まずは測量から始まった。
(続く)
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