深川から着工、留萌まで開業 留萌港の修築とセットで進められる
当初の鉄道敷設計画は留萌を通らないで増毛へ向かっていたが、当時の土木技術では困難だったこともあり、留萌を経由するルートで確定した。
鉄道の敷設は、留萌港の修築とセットで構想が進められた。留萌の有志が1898年(明治31年)ごろから五十嵐網治らを中心に「鉄道築港期成同盟会」の結成を準備した。1900年(明治33年)12月には留萌の藤田隆造ら有志16人が増毛支庁を通して道庁に対し、鉄道速成の請願書を提出。01年(明治34年)12月にも藤田隆造ら有志50人が鉄道敷設の請願書を帝国議会に提出し、機運が高まっていった。
なお、留萌港は09年(明治42年)の帝国議会で修築が採択され、10年(明治43年)に着工した。29年(昭和4年)に南防波堤、31年(昭和6年)には北防波堤が完成した。岸壁や護岸、副港の築設、浚渫(しゅんせつ)などの整備も進み、33年(昭和8年)、近代化された留萌港が竣工した。36年(昭和11年)に国際貿易港、52年(昭和27年)に重要湾港となり、出入国港の指定を受けた。現在では石油製品、セメントが主な取り扱い貨物であるとともに、沿岸漁業の基地となっている。
04年(明治37年)に日露戦争が起こったため、深川~留萌間の鉄道敷設の議論は宙に浮いた。06年(明治39年)3月、帝国議会で鉄道敷設が決定されたが、当時の衆議院第1党の立憲政友会所属で北海道内選出の中西六三郎、柳田藤吉、内山吉太らが出身地に利益をもたらそうと、留萌線の建設に反対するなど、政治力を発揮したという。立憲政友会は鉄道の速成、港湾の修築、河川改修などを積極的に行い、地方に利益を誘導することで党勢を広げていた。留萌線の実現に貢献したのは、道内選出で立憲同志会所属の浅羽靖だった。
鉄道敷設工事では、06年から測量に着手し、深川~恵比島間は06年11月、恵比島~留萌間は07年(明治40年)2月に路線選定が完了した。07年2月に深川から着工し、工事は3工区に分けて進められた。第1工区の深川~恵比島間は07年2月、第2工区の恵比島~藤山間は07年10月、第3工区の藤山~留萌間は09年(明治42年)5月から工事が始まった。
第1工区は雨竜川橋梁の架設に時間を要した。第2工区は恵比島トンネル(272m)と峠下トンネル(328m)の掘削に加え、地質が軟弱で土砂の崩壊も発生した。第3工区も軟弱な地盤で難工事だったが、10年(明治43年)11月23日、深川~留萌間が留萌線として開業した。
(続く)


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