これまで8回にわたって連載してきたが、名羽線の敷設運動ではさまざまな裏話もあったことから、特別編として紹介したい。
大まかな沿革は、1922年(大正11年)4月に予定線となり、名寄側は41年(昭和16年)10月までに名寄~朱鞠内間が深名線として開業。羽幌側は41年12月、羽幌~築別間が羽幌線、築別~曙~築別炭砿間が羽幌炭砿鉄道として開業したが、間もなく太平洋戦争に突入し、敷設運動は中断した。
残る朱鞠内~曙間は、戦後の57年(昭和32年)4月に調査線、59年11月に建設線、61年4月に着工が決定した。
62年(昭和37年)4月から曙側で着工。62年12月に曙~三毛別間が完成し、非営業線として石炭や名羽線工事資材の輸送を開始。66年7月から朱鞠内側でも着工した。
しかし、70年(昭和45年)11月の羽幌炭砿閉山に伴い、70年12月に羽幌炭砿鉄道が廃止。80年12月の「国鉄再建法」施行により、工事が凍結された。
敷設運動では、血がにじむような努力や思いがけない人脈に加え、敷設促進へ躍起になったゆえの騒動もあった。
76年(昭和51年)8月16日付、23日付の名寄新聞連載「北の足跡」の第14回、第15回「名羽線の建設運動(上、下)」によると、戦前、名羽線実現のために「名寄町民は全員、政友会に入党すべし」と当時の与党に肩入れする機運が高まり、政敵だった憲政会(後の民政党)の党員までも、ほとんどが政友会にくら替えする騒動が巻き起こった。
これは鉄道整備の方向性で、憲政会がローカル線建設よりも既設線改良を重視する「改主建従」に対し、政友会はローカル線建設を優先する「建主改従」だったことが要因で、新線建設のためならば政友会に接近した方が優位に働くと考えられた。
方向性の違いは実際に現れ、当初、名寄~朱鞠内間は31年(昭和6年)着工、38年完成予定とされたが、29年7月発足の民政党・浜口雄幸内閣で予算カットされる憂き目に遭った。
杭打ちするのは益谷秀次31年4月発足の民政党・第2次若槻禮次郎内閣を挟み、31年12月に政友会・犬養毅内閣へ政権交代したため予算復活が提案されたが、32年5月の「五・一五事件」で犬養が暗殺され、立ち消えとなった。同月発足の斎藤実内閣は両党連立政権となり、政友会の三土忠造が鉄道大臣に就任したため、予算復活へ希望をつないだ。
34年(昭和9年)3月の帝国議会で名寄~朱鞠内間の建設予算が付き、34年5月に鉄道省が予定線実測を行い、35年8月から着工となった。
戦時中、敷設運動は中断したが、戦後再開。当初は名寄町、幌加内村、羽幌町で個々に中央折衝へ当たっていたが「名羽線?どこの線かね」とあしらわれ、らちが明かなかったことをきっかけに、52年(昭和27年)3月、3町村合同による「名羽線全通促進期成会」を結成し、敷設運動の統一化を図った。
期成会の結成後、敷設運動が本格化。早期の調査線、建設線、着工決定を目指し、陳情や情報収集を重ねるとともに、ある大物政治家との人脈を築くことになるのだが、その人物とは衆議院議長、鉄道建設審議会長、自民党新線建設同盟会長を務め、鉄道建設問題では最高権威者だった益谷秀次(石川県能登町出身、1888年1月17日~1973年8月18日)である。

(敬称略 続く)


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