構想は明治末期から 予算カットされた時期も
かつて内陸の名寄市と日本海側の羽幌町を結ぶ鉄道計画があった。名羽線(めいうせん)という路線名称で、明治末期に構想が浮かび、大正期に予定路線となり、1941年(昭和16年)に名寄~朱鞠内間が深名線、羽幌~築別間が羽幌線、築別~曙間が羽幌炭砿鉄道として開業した。
残る曙~朱鞠内間は戦後の62年から着工し、森林開発や炭鉱開発、観光ルートなどとして期待されたが、70年の羽幌炭砿閉山によって建設の意義が薄れた。その後、国鉄の膨大な負債が問題となり、ローカル線建設予算が凍結。名羽線も工事が凍結され、未成となった。
ここでは「幻の鉄道」に終わった名羽線の「夢の跡」を追いたい。名寄市史、幌加内町史、羽幌町史の各巻、森口誠之著「鉄道未成線を歩く 国鉄編」、松村真人著「走らなかった鉄道 未成線を追う」、草町義和監修「全国未成線ガイド」、鉄道ジャーナル2016年1月号「幻の鉄路をたどる⑨名羽線」、広報はぼろ、名寄新聞などを参考資料とした。
名羽線の構想は、1909年(明治42年)11月15日に札幌で開かれた鉄道期成大会で、北海道開拓のために早期建設が必要な18路線の一つとして、名寄~羽幌間が挙げられたことから始まる。
10年5月から10月にかけて鉄道院の技師が実測調査。20年(大正9年)3月に羽幌村議会議員と青年団幹部が現地調査、21年7月に関係町村有志30人が予定線踏査を実施した。
22年4月11日、改正鉄道敷設法公布により、名羽線(94.2㌔)が予定線となった。23年3月、名寄町長の村井丑之丞が名羽線敷設の請願を衆議院に提出し、採択された。
28年(昭和3年)12月、鉄道建設特別計画が打ち出され、名寄~朱鞠内間が31年から着工、38年に完成予定とされたが、29年7月に民政党の浜口雄幸内閣が成立すると予算カットされた。民政党はローカル線建設よりも既設線改良を重視する「改主建従」だった。
浜口は30年11月14日、東京駅で右翼団体構成員に銃撃され、病状悪化で総理大臣を辞職。31年4月発足の民政党の第2次若槻禮次郎内閣を挟み、31年12月に政友会の犬養毅内閣へ政権交代した。
政友会はローカル線建設を優先する「建主改従」だったため予算復活が提案されたが、32年5月15日の「五・一五事件」で犬養が暗殺され、その見通しは消えた。同月発足の斎藤実(海軍大将)内閣では両党の連立政権となり、政友会代議士の三土忠造が鉄道大臣に就任したため、予算復活へ希望をつないだ。
33年5月、鉄道参与官の板谷順助の協力により、鉄道省技師3人の実測隊を派遣し、羽幌町議会からも4議員が参加した。
34年3月の帝国議会で名寄~朱鞠内間の建設予算が付いたことを受け、34年5月に鉄道省が予定線実測を行った。
35年3月、羽幌町議会の4議員が踏査を決行。名寄町での踏査隊歓迎会で、某寺の住職が「雪の嶺こえて親しむ名羽線」の一句を贈ったという。
紆余曲折もあったが、35年8月、まずは名寄~朱鞠内間(43㌔)で着工が決まった。
(続く 敬称略)
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