日本海へ“夢の跡”~幻の鉄道「名羽線」特別編 羽幌炭砿(中編)合理化進めつつ増産 運搬立坑などの設備投資も
戦後は経済再建のため、政府は石炭を最重要産業として緊急の増産対策を推進した。羽幌炭砿は新規炭鉱開発の要請を受け、1947年(昭和22年)8月に上羽幌坑、48年8月には羽幌本坑(三毛別)を開坑した。
その裏で、戦時中の狸穴採炭で坑内は荒廃し、自然発火や盤膨れなどで危険性が高まり、日本炭鉱労働組合築別支部は50年5月から大規模ストライキを決行した。50年8月末に平和的妥結の見通しがついたが、一部組合員は無期限ストへ突入し、日本炭鉱労働組合と会社援護の第二組合に分裂し、警察も出動した。ストは50年10月9日に終結し、その後は労使協調となり、出炭量が伸びて全盛期を迎えた。
この頃、年産800万tを誇る満州(現・中国東北部)の撫順炭鉱で第一線に立ち、後に羽幌炭砿鉄道株式会社専務となる朝比奈敬三を迎え、50年度の年産16万1087tから53年度は31万5790t、56年度は54万6千t、60年度は86万6870tと5倍以上に伸ばした。朝比奈は60年2月23日に論文「築別炭砿の合理化」を発表し、日本鉱業会から最高栄誉の「渡辺賞」を受けた。
築別炭砿東坑では2億円を投じ、53年(昭和28年)10月15日、主要運搬坑道の大竪入坑道(延長2180m)が貫通した。56年7月25日にベルト斜坑(延長710m)、59年10月10日には選炭場と石炭を貨車に積み込む「ホッパー」が完成した。
56年5月、町田叡光が社長就任。一時的な不況期には合理化やコストダウンを進める一方、設備投資と並行して増産し、61年度に年産101万6100tと大台を突破し、大手炭鉱と肩を並べた。その後は年産90万t台で推移し、63年度は95万2300tだった。

一方、石炭輸送増強を最大の目的とした名羽線は戦後、羽幌~朱鞠内間の敷設促進運動を推進し、61年(昭和36年)4月25日に工事着手が決定した。62年4月22日から曙~三毛別間(延長3.8km)で着工し、12月24日に曙~三毛別間の路盤とレール敷設が完成し、非営業線として石炭の輸送を開始した。
羽幌炭砿鉄道株式会社は50年10月、上羽幌坑から羽幌本坑を経て、羽幌炭砿鉄道線の曙駅までの索道を開設し、石炭を運搬していたが、輸送力増強を図るため、名羽線の早期建設を求めていた。国鉄は石炭輸送に協力することになり、異例の措置で工事中の路線を同社に貸し付けた。
64年3月23日の日本鉄道建設公団の発足以降は、鉄建公団から国鉄に対して年間545万1千円で貸し付けるとともに、同社からは国鉄に対して運送対価として発送1t当たり57円を支払った。
その裏で、62年から石油の輸入が自由化されたためエネルギー転換が進み、石炭産業は斜陽化した。政府は63年から炭鉱の「スクラップ・アンド・ビルド政策」を進め、生産合理化と閉山に着手した。
羽幌炭砿は「ビルド鉱」として生き残り、当時最新鋭だったソ連製掘進機を導入するなど、設備投資によって合理化を推進した。羽幌本坑では新たな選炭場とホッパーが3億7千万円を投じ、62年8月17日から稼働開始。運搬立坑(巻上塔全高39.34m、巻上深度512.5m)は17億円を投じ、65年6月11日に落成した。65年度は年産100万tと再び大台を突破し、68年度は過去最高の113万3千tとなった。
築別炭砿東坑では3億円を投じ、64年春からベルト大斜坑の建設工事を開始したが、翌年、異常出水と泥噴出の影響で中断し、67年(昭和42年)2月21日に工事継続を断念した。4月中旬には東坑の最下層採炭稼働区域でも泥と出水が見られ、この頃から先行きに不安を感じて退職者が増え始めた。
(敬称略 続く)
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