政変もあって着工が遅れていた名羽線だったが、1935年8月、名寄~朱鞠内間(43km)で着工が決まった。
路線名称は名寄と雨竜郡を結ぶことから名雨線(めいうせん)とされ、4工区に分割。35年8月に宇津内~朱鞠内間、35年10月に名寄~北母子里間、36年5月に北母子里~白樺間と白樺~宇津内間で着工した。
37年11月10日、名寄~初茶志内(51年7月20日、天塩弥生と改称)間(7.2km)が開業。41年10月10日に初茶志内~朱鞠内間(35.8km)が開業するとともに、32年10月25日までに開業していた幌加内線の深川~朱鞠内間(78.8km)と統合し、深名線となった。
初茶志内~朱鞠内間は山岳地帯で、橋梁のコンクリート打ち、名雨トンネル(1530m)や第2雨竜トンネル(1000m)など8カ所のトンネル掘削など難工事が多く、日本人や朝鮮人のタコ部屋労働によって工事が進められた。
名羽線も名雨線も読みは「めいうせん」だが、戦後、名寄市長となった名取忠夫は、名羽線が調査線となった(57年4月3日)後の座談会で「昭和12年(1937年)に初茶志内、昭和16年(1941年)に朱鞠内と進んだところで戦争が激しさを加え、財政的に余裕がなくなってきた。鉄道当局は何とかうまい理屈をつけてというわけで、幌加内から北上してきた線にこれをぶっつけ『名雨線』は完成したからいいじゃないかと勝手に『羽』を『雨』にすり替えてしまった」と語っていた。
一方、羽幌側は、羽幌線が32年9月1日までに留萌~羽幌間(58.3km)が開業していたが、41年12月9日に羽幌~築別間(6.7km)が延伸。同月14日には羽幌炭砿鉄道の築別~曙~築別炭砿間(16.6km)が開業した(築別~曙間は11.1km)。
名羽線の当初計画ルートは、羽幌駅から羽幌川沿いに進み、天塩山地を越えて朱鞠内へ向かっていたが、築別での炭鉱開発や同鉄道の開業により、築別駅で分岐するルートに変更。後に羽幌駅から5.3km築別方に天塩汐見信号場を新設して同鉄道へ短絡するルートとなった。
同鉄道は羽幌炭砿の石炭を運搬するために敷設され、39年9月着工。戦時体制下で資材の入手が困難だったため、全国から架け替えで不要になった橋脚や橋桁を集めたことで、寸法が不ぞろいという突貫工事だった。
羽幌炭砿があった苫前炭田は、1874年にアメリカ人地質学者のベンジャミン・スミス・ライマン、88年に道庁技師の桑田知明、89年に同じく道庁技師の西山正吾が調査し、94年に鉱区を設定。輸送手段がなかったため開発が遅れていたが、1918年、神戸市の総合商社・鈴木商店が鉱区を買収した。
鈴木商店は昭和金融恐慌の影響で27年4月に経営破綻したが、系列会社の太陽曹達(現・太陽鉱工)が31年から炭鉱開発へ着手。40年2月に築別炭砿が開坑。41年3月17日に羽幌炭砿鉄道株式会社が設立。戦後の47年8月に上羽幌坑、48年8月に羽幌本坑(三毛別)が開坑した。
未着工区間は朱鞠内~曙間(34.7km)となり、40年4月に現地踏査が行われたが、41年12月8日から太平洋戦争に突入した影響で敷設運動は中断した。
運動再開は戦後となったが、ここから名羽線全通促進期成会の結成(52年3月22日)、着工に向けた陳情が続き、運動が本格化した。
(続く 敬称略)
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