興浜南・北線の存続を目指して廃止反対運動が進められるとともに、沿線自治体では鉄道存続に向けて、雄武~北見枝幸間の建設工事再開、興浜線の3セク化、オホーツク本線構想の実現を訴えてきた。
しかし、知事の諮問機関であった北海道運輸交通審議会は1984年(昭和59年)12月7日、道にバス転換を答申。沿線人口が希薄であり、既に自動車中心の交通体系に移行しており、大量輸送可能な鉄道の特性を発揮できないとした。
3セク化は経営の見通しが不安定で、今後の経営状況によっては関係自治体に多大な負担をもたらし、住民生活にも影響を及ぼすと懸念。「3セク化による地方鉄道の選択は難しく、地域の輸送需要に弾力的に対応でき、鉄道に比べて運行経費が少ないバス輸送への転換が適当である」と答申した。
北海道も同月10日、バス転換を妥当とし、3セク化の見通しは消えた。同月18日に雄武町、同月20日には枝幸町がバス転換を容認し、雄武~北見枝幸間の工事再開と興浜線の3セク化を断念した。「オホーツク本線構想」も立ち消えとなった。
85年(昭和60年)2月7日の第5回特定地方交通線対策協議会で、興浜南・北線のバス転換が正式決定した。なお、雄武~北見枝幸間は従来から路線バスが運行している。
85年7月1日に興浜北線が廃止。枝幸町長の三浦進は「まちが繁栄したのは国鉄があったおかげであり、わずか半世紀で廃止されるのは本当に残念だ」と語った。
同月15日には興浜南線も廃止され、雄武町長の飯原孝喜は「言葉に表せない残念な思いだ」と語っていた。
興浜北・南線の最終営業運行当日には「さよなら列車」が走り、大勢の鉄道ファンや沿線住民に見守られ、別れを惜しみながら、半世紀の歴史に幕を下ろした。
当初は北・南線とも85年6月末の営業運行をもって廃止する予定だったが、7月13日に雄武町でスタートした「’85オホーツク・サイクリング大会」の参加者輸送を最後の花道にするため、南線の廃止は2週間延ばされていた。
「オホーツク本線構想」も夢に終わり、一部を構成した第2次特定地方交通線(輸送密度2千人未満)の湧網線は87年3月20日、名寄本線と天北線は89年(平成元年)5月1日に廃止された。
未成区間の用地は89年4月に国鉄清算事業団へ継承され、92年7月から雄武町と枝幸町に譲渡。牧草地に隣接する路盤は農家に売却され、跡形が分からなくなっている。人家に近い幌内川橋梁、音標川橋梁、風烈布川橋梁も撤去された。
開業区間を含む興浜線の現状だが、興浜北線は豊牛駅、斜内駅の駅舎(待合室)が残っており、北見枝幸駅跡にはバスターミナルが開設され、付近に記念碑が建立されている。興浜南線は雄武駅跡に道の駅「おうむ」が開設され、付近に記念モニュメントが設置されている。沢木駅跡は公園となっている。
未成区間では雄武駅跡北側の雄武トンネルをはじめ、元稲府川橋梁、音稲府川橋梁、エダエサシ川橋梁(以上雄武町)、トイナイ川橋梁、ゴメ川橋梁(以上枝幸町)などが残っている。北見音標駅予定地は音標緑地公園として整備され、面影をしのばせている。
ただ、北見音標駅予定地以北は同駅北側と風烈布駅予定地付近を除いて着工されなかったため、形跡は見られない。
興浜線に並行する国道238号は70年代後半に舗装が完了。この頃から自動車交通にシフトしており、興浜南・北線の廃止や雄武~北見枝幸間の建設工事凍結につながった背景にもなったと思われる。
(続く)
道北の求人情報
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
1級土木技術者
300,000円〜400,000円
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
2級土木技術者
250,000円〜330,000円
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
舗装技術者(1級資格保持者)
300,000円〜380,000円
北海道上川郡和寒町字三笠99番地
株式会社 近藤組
上川管内の作業所
変形労働時間制
舗装技術者(2級資格保持者)
240,000円〜330,000円
北海道名寄市東4条南9丁目4-9
大沼左官工業 株式会社
北海道名寄市東4条南9丁目4-9
変形労働時間制
左官工
168,000円〜306,600円
名寄新聞を購読希望の方は
名寄新聞 購読料のご案内通信員募集のお知らせ道北ネット ビジネスデータ トップページに戻る