南と北のレール繋がらず オホーツク海沿岸鉄道・興浜線 特別編 オホーツク本線構想 海や風景、自然を売り込んで実現していれば集客を図れていたかも
1980年(昭和55年)12月27日、「国鉄再建法」が施行され、興浜線の雄武~北見枝幸間の建設工事が凍結された。81年(昭和56年)9月18日には興部~雄武間の興浜南線、浜頓別~北見枝幸間の興浜北線が第1次特定地方交通線に指定され、廃止対象となった。
その頃、音威子府~南稚内間の天北線、名寄~遠軽間の名寄本線、中湧別~網走間の湧網線も廃止対象とされる懸念が高まっていた。そのため、沿線自治体では鉄道存続を目指して、オホーツク海沿岸のローカル線で釧路から稚内までを有機的に結ぶ「オホーツク本線構想」を打ち出した。
同構想は、釧路から釧網本線を経て網走へ、湧網線を経て中湧別へ、名寄本線を経て興部へ、興浜南線を経て雄武へ、建設工事中の雄武~北見枝幸間を完成させ、北見枝幸から興浜北線を経て浜頓別へ、天北線を経て稚内へ至る鉄道を一本化させたもので、全長は504.5kmとなった。
沿線の開発期成会が81年8月26、27日に国鉄、運輸省などを回り、「オホーツク本線」の実現を訴えた。その後、沿線19市町村で81年10月28日、「オホーツク本線建設促進期成会」を発足させた。
沿線自治体では、従来は細切れルートで利用しにくいため、釧路から稚内までストレートに列車を走らせることで活発な路線になることや、潜在需要として農産物や水産物の運搬があること、さらに冬場は「流氷列車」を運行させることで観光の目玉となる可能性を狙っていた。

同期成会は82年(昭和57年)10月27日、既存の鉄道と雄武~北見枝幸間のバスを組み合わせて試乗会を開き、網走から稚内まで11時間ほどかけて移動し、構想の実現に向けて力を込めた。
しかし、85年(昭和60年)7月1日に興浜北線、同月15日には興浜南線が廃止され、「オホーツク本線構想」は夢に終わった。
湧網線は84年(昭和59年)6月22日、名寄本線と天北線は85年8月2日に第2次特定地方交通線として指定され、湧網線は87年(昭和62年)3月20日、名寄本線と天北線は89年(平成元年)5月1日で廃止された。
ここからは仮想となるが、「オホーツク本線構想」は観光振興にも期待をかけていたことから、そこに注目してさまざまな可能性を想定してみた。
現行の釧網本線で運行している冬季の臨時列車「流氷物語号」(網走~知床斜里間)、「SL冬の湿原号」(釧路~標茶間)、夏季の臨時列車「くしろ湿原ノロッコ号」(釧路~塘路間)、宗谷本線で運行している春季の臨時列車「花たびそうや」(旭川~稚内間)のような観光メインの列車をオホーツク海沿岸で走らせることにより、集客を図ることができたとも考えられる。
春から夏、秋にかけての花、冬の流氷とともに、オホーツク海や周囲の風景、豊かな自然を売り込めば、満足度の高い列車を運行することができただろう。
列車は「流氷物語号」「SL冬の湿原号」「くしろ湿原ノロッコ号」「花たびそうや」仕様の車両をはじめ、大勢の利用客に対応するならば、多目的特急気動車のキハ261系5000番台「はまなす編成」「ラベンダー編成」を使用するとよさそうだ。
車窓からの景色や眺めが素晴らしい路線だったことから、もし今も鉄道が存続していれば、観光客や鉄道ファンでにぎわっていたと思う。
国鉄時代から景観を売りにした観光列車の運行がより積極的であれば―と思うと「オホーツク本線構想」は実現していたかもしれない。今は昔のことになるが、鉄道廃止は残念でならない。


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