第3セクターで全線開業を目指そうとしたが、美幸線敷設促進期成会、道それぞれの3セク化調査結果で要員、経費、収支見込みで大きな差があった。甘い見通しを示した期成会に対し、道は難色を示し、1984年6月27日の道議会総務委員会で3セク化は困難と表明した。 また、自治省から「地方自治体は赤字ローカル線の経営肩代わりに慎重な態度を」という通達も背景にあった。
一方、期成会は84年9月18日、3セク会社の設立を決定。資本金は2億円とし、道に1億円の出資を要請するとともに、転換交付金(1km当たり3千万円)の一部から5千万円、美深・歌登・枝幸の沿線3町で各1千万円を拠出し、民間から2千万円を募集。赤字対策として残りの転換交付金を基金化し、その利息を充当する計画を立てた。
しかし、期成会の計画に疑問を唱える住民も。「試算はつじつま合わせに終始し、裏付け根拠に乏しい」「内容が非公開で、住民の知る権利が保障されていない」「財政的に自治体が3セク運営をするのは無理がある」などと問題点を指摘し、84年11月17日「美幸線第3セクターを考える美深・歌登・枝幸町民の会」が発足した。 設立総会で会長の斎藤政久(歌登町議会副議長)は「セクター計画が住民に説明されなかったのはおかしい。期成会の試案は道の試算と食い違い不安だ」と挨拶。3町理事者も招いて討論したが、試算の説明に疑問が相次いだ。
道知事の諮問機関「運輸交通審議会」の国鉄地方交通線検討小委員会では、3セク化かバス転換かを審議してきたが、3セクは経営見通しが不安定で、関係自治体の財政負担や住民生活への影響を懸念。自動車中心の交通体系移行による輸送構造の変化を挙げ、地域の需要に弾力的に対応でき、鉄道に比べて運行経費が少ないバス輸送が適当として、84年12月7日、バス転換を道に答申。道も同月10日、バス転換を妥当とし、3セク出資を見送った。
期成会は反発し、85年1月14日、沿線3町独自で3セク化を打ち出したが、85年2月19日の第4回特定地方交通線対策協議会で、道や道運輸局、旭川鉄道管理局は採算面などで難色を示し「会社を設立したとしても、運輸省は鉄道運営の免許を出さないだろう」との厳しい見方を示した。 また、85年3月中に転換が決まらなければ協議不調として廃止への「見切り発車」も通告した。その場合、転換交付金は受け取れなくなる。 その後「道の出資がない構想では、鉄道運営免許は与えられない」と分かり、鉄道存続の望みは絶たれた。
85年3月28日の第5回同協議会で、3町は鉄道存続を断念し、バス転換に合意。3セク会社設立による全線開業は実現せず、仁宇布~北見枝幸間は未成に終わった。 工事凍結までに総事業費は132億7300万円を投入。建設工事当初予算額の推移を下表に示したが、債務負担行為によって予算は積み増しされ、実際には当初予算額以上となった。75年度以降は毎年度10億円を投入し、全国でもトップレベルの金額だった。
転換交付金は本来、開業区間にしか交付されないが、3町で敷設促進運動を進めてきたことなど歴史的経過を考慮し、3町に交付。開業区間21.2kmの総額6億3600万円のうち美深町4億7千万円、歌登町9400万円、枝幸町7200万円を配分した。
85年9月16日、美幸線は最終営業運行の日を迎えた。
(敬称略 続く)
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