日本海へ“夢の跡”~幻の鉄道「名羽線」 特別編 名羽線と名雨線 もし開業すれば深名線にも影響か
名羽線は、名寄と羽幌を結んだことから、それぞれの頭文字を取ってそのように名付けられたが、実際に建設工事がスタートすると、未成区間の朱鞠内から羽幌までが「名羽線」とされた。
先行開業区間の名寄から朱鞠内までは「名雨線」として着工し、1937年(昭和12年)11月10日に初茶志内(51年7月20日、天塩弥生と改称)、41年(昭和16年)10月10日に朱鞠内まで開業したところで、深川から朱鞠内までの「幌加内線」(32年10月25日全通)と統合して「深名線」となった。
「名羽線」も「名雨線」も「めいうせん」と呼ぶが、路線名称の経緯には、このような談話が残されている。
57年(昭和32年)4月3日、「名羽線」が調査線に指定された際、名寄新聞社主催で、その喜びを語る座談会を開催。71年(昭和46年)12月1日発行の名寄市史に座談会のやり取りが掲載されており、抜粋する。
清野栄惣吉(名寄市助役) 名羽線開通への動きは確か大正の初期です。後藤倫(名寄商工会議所会頭) 当時、政友会、憲政会に分かれ、鉄道建設のため、町の有志のほとんどが政友会に入党した。
名取忠夫(名寄市長) 当時「建主改従」「改主建従」という言葉が流行したが、前者が政友会、後者が憲政会のスローガン、いうなれば積極と消極政策の違いをいったもので、鉄道建設は「建主改従」…いきおい政友会に集団入党の挙に出た。
後藤倫 当時、鉄道の予定線としては羽幌までだったかな。「名羽」は「名雨」と書いてあったはずだが。
名取忠夫 いや違う。最初から名寄~羽幌間の予定で「名羽線」が本命、ところが昭和11年(1936年)に工事を始め、昭和12年(1937年)に初茶志内、昭和16年(1941年)に朱鞠内と進んだところで戦争が激しさを加え、財政的に余裕がなくなってきた。 鉄道当局は何とかうまい理屈をつけてというわけで、幌加内から北上してきた線にこれをぶつけ、「名雨線」は完成したからいいじゃないかと勝手に「羽」を「雨」にすり替えてしまった。
石井信夫(名寄市議会議員) 国自体が総動員体制で、橋の欄干まで取り外すという窮迫をみせていた時代だからね。
「建主改従」は新線の建設を優先する一方、「改主建従」は既存線の改良を優先するという鉄道施策の方向性の違いを表現している。 「名雨線」の「雨」は幌加内町が所属する雨竜郡の頭文字を取っている。
名寄~朱鞠内間は「深名線」として定着したため、「名羽線」は朱鞠内~羽幌間のことを指すようになる。
「名羽線」は59年(昭和34年)11月9日に建設線となり、61年(昭和36年)4月25日に着工が決定。62年(昭和37年)4月22日に羽幌側、66年(昭和41年)7月29日に朱鞠内側から工事が始まったが、国鉄財政悪化に伴い、日本鉄道建設公団のAB線(地方開発線・地方幹線)予算凍結もあり、A線の名羽線は80年(昭和55年)から工事が凍結され、未成に終わっている。
もし、朱鞠内~羽幌間が開業していたら、路線名称はどうなっていたのか気になるところである。
当初、名寄と羽幌を結ぶ路線だったことから、「深名線」の名寄~朱鞠内間も編入して名寄~朱鞠内~羽幌間を「名羽線」としていたのか、あくまでも名寄~朱鞠内間は「深名線」であり、「名羽線」は朱鞠内~羽幌間としていたのか、今となっては知るすべがない。
「深名線」は、名寄~朱鞠内間の並行道路が整備されていなかったことから、国鉄末期の廃止対象路線だった「特定地方交通線」の指定は免れたが、後に道路整備が進んだことや利用客減少もあり、95年(平成7年)9月4日に廃止された。
一方、朱鞠内~深川間の並行道路は80年代前半までに整備が完了しており、もし名寄~朱鞠内~羽幌間が「名羽線」となっていた場合、「深名線」残り区間の朱鞠内~深川間は別路線として分離され、廃線が早まっていた可能性も考えられる。「名羽線」の開業次第で「深名線」の存廃に影響を与えていたかもしれない。
ただ、「名羽線」沿線の人口は現実に少なく、羽幌炭砿の閉山(70年11月2日)もあったため、全線開業していたとしても早いうちに廃止されていただろう。

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