壁
安部公房(新潮文庫 1969年/改版1988年)
安部公房との出会いは、高校3年生の頃だった。私が通っていた高校で扱う現代文の教科書では、彼の初期作品『赤い繭』が採用されていた。活字中毒の人間の例に違わず、退屈な授業中に読んだのが最初だ。
初めて読んだ時の感想は、正直なところあまり覚えていない。当時受験生だったこともあり、読後感が微妙で何とも説明のつかない文章を、限られた頭で覚えている余地がなかった。だから、安部公房についてはとにかく読んだということしか記憶になかった。
大学での学びを経て多少難解な文章も読むようになった今、改めて安部公房に挑戦したいと何作か読んでいる。『壁』は私にとって3作目で、個人的には最も読みやすい文章だったかもしれない。
この作品は「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」「赤い繭」の3部からなる彼の初期作品集だ。さらに「赤い繭」は表題に「洪水」「魔法のチョーク」「事業」を加えた4話で構成される。「S・カルマ氏の犯罪」では、ある日自分の名前を喪失してしまった男が、名前がないゆえの大変な不条理に見舞われる。次の2部では、自分の影を取られてしまったことで透明人間になった男の話が展開されていく。「赤い繭」は4話の短編が連なっており、不可解ながらもすぐに読める作品なので、ぜひ読んでいただきたい。
安部公房の作品はよくシュールレアリズムだとか実存主義的だとか、何かと小難しくしゃちほこばった評価がなされがちだ。しかし、そんな大層な文学的価値が分からなくとも安部公房の作品は面白い。確かに、超現実的な展開が織りなす、この世界に存在しているとはどういうことかという哲学的な問答について議論することには学術的意義がある。他方、そんなことを考えながら読書するのは窮屈でもある。もっと自由に、ラフに安部公房を楽しんでも良いのではないか。
皆さんは日常でふと不安を感じることはないだろうか。例えば仕事や学校に行っている中で、「上司」や「先輩」、はたまた「先生」などただの役割としての自分だけが求められていて、オリジナルな個性やプライベートの自分は全く顧みられていないのではないかという心細さ。しかしそんな不安を感じても、それに四六時中悩まされ日常生活を送れなくなるほどに絶望することは多くはないだろう。程度の差こそあれ、どこかで踏ん切りをつけたり些細な歓楽を見つけたりして、そうした悩みと毎日付き合っているはずだ。
本作では、どこかあっけらかんとした、こうした日常の浮き沈みが描かれているように思う。その超現実的で有り得なさそうな展開には、家事や仕事、授業をこなしている最中に湧きあがる無敵の空想と近いものがあるからかもしれない。突拍子もないが、現実の延長としてついつい夢想してしまうこと。それとは別に、夜更かしした布団の中で意識に上がる、自分という個への輪郭のない心許なさ。どんな人にだってこうした凹凸が共存している。現実の己の気分というのは、実は人間自身が思っているよりも矛盾していて、不確かで、奇妙なのだ。
安部公房の作品は、「存在」という当たり前でいて複雑なようなテーマを取り扱うものが多い。シリアスで深刻な問題を投げかけてくるようにも見える。しかしその筆致はどこか軽妙だ。その瞬間文章に書かれていることはありありと伝わってくるのに、後から思い返そうとすると不思議と頭に引っかからない心地がする。言わばライブ感というものだ。人間の不可解で不条理な心の移ろいを、安部公房のテイストにのせて、ただ感じてみるだけという楽しみ方も有りではないだろうか。
書き手:小松貴海
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