死ねばいいのに
京極夏彦(講談社文庫 2010年/文庫版2012年)
『死ねばいいのに』は、不思議な作品だ。何が不思議かというと、一人の女性の死の真相を巡るミステリー小説でありながら、読後まるで哲学書のように、読者が死について、人間について、熟考することを促してくるのである。
ストーリーは、会話劇のような形で進む。ケンヤという男が、何者かによって殺された女性・アサミについて教えてほしいと、アサミの上司、アパートの隣人、母親、恋人、事件を担当している警官、と次々に関係者を訪ね、執拗に問いかけていく。
徐々にアサミの生き方、考え方などが明らかになり、死の真相に近づいていく、という話の筋ももちろん面白いのだが、この作品の一番の魅力はアサミの関係者たちとケンヤの性格の対比であると思う。アサミの関係者たちは、それぞれ社会から与えられた自分の立場を意識し、その立場として自分がどうあるべきかを追求しようとする。たとえば、管理職なら管理職らしく振る舞いたい、自分の学歴の高さに応じた暮らしがしたい、と願う。しかし、理想通りにはいかず、パッとしない現状を、自分を認めてくれない周囲の人々のせいにしようとする。一方ケンヤは、自分が何者かであることに固執しない。複雑な家庭環境で育ち、定職に就かず、その日暮らしをしているケンヤは、社会的な肩書きをなにも持たない。普通は不安になってしまうような自己の在り方をケンヤは自ら選び、恥じることをしない。したがってケンヤにとっては、自分で設定した理想にがんじがらめになっているアサミの関係者たちが馬鹿らしくて仕方がないのだ。そして、現状に満足できない彼らに、「だったら死ねばいいのに」と言い放つのである。ケンヤの言葉に、登場人物たちは激しく動揺し、価値観が大きく揺るがされていく。
自分の能力を見極め、それに見合った生き方をしようとするケンヤの人生観は、肯定されるべきものかも知れない。実際、自分の不幸に言い訳を並べるほかの登場人物たちと比べて、ケンヤの生き様はまっすぐでかっこよく見える。しかし、アサミの関係者たちの生き方が異常かというと、それは違うだろう。おそらく我々の多くは、アサミの関係者たちと同じように、何者かであることを諦めることができない。誰かの家族、誰かの友達、どこかの社員、どこかの学生。何かしらの肩書きを持ち、それに相応しい振る舞いをして周囲に認めてもらおうとする。我々が背負う肩書きは一つではなく、複数が絡み合って、時に我々を苦しめる。苦しくて、逃れたくて、その苦しみの原因を外部に求めることもある。だから我々は、登場人物たちの生き様を「ダサい」と思いつつも、どこか心が痛むのだ。
果たして、ケンヤのような考え方ができたら幸せになれるのだろうか。理想を求めることは、良いことなのだろうか。それとも、悪いことなのだろうか。湧いてくる疑問に、答えを出すのは時間が掛かりそうだ。ぜひ一度本書を手に取って、じっくり考えてみてほしい。もしかしたら、ケンヤの放つ「死ねばいいのに」という言葉が、読者の誰かの救いになるかもしれない。
書き手:伊東愛奈
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