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「第七官界彷徨」
尾崎 翠(河出文庫 2009年)
尾崎翠(おざきみどり)という作家をご存知だろうか。1896年に鳥取で教師の両親との間に生まれた彼女は日本女子大学に在学中に小説を執筆。大学中退後、文学に専念し文学作品や映画評を書き続けていた。しかし精神の不調から地元に戻ることを余儀なくされる。以降は文学仲間との音信が途絶えたばかりか作品が発表されることもなくなり、徐々に本人の生死すら文壇では曖昧になっていった。しかし彼女の作品は一部の文学者や文化人の心にその爪痕を残していたようだ。日本のアヴァンギャルド芸術論を先駆けて展開した花田清輝らが尾崎の作品を文学全集への掲載を推薦したのをきっかけに彼女の作品は再び世に広まるようになった。
1931年に発表された『第七官界彷徨』は彼女の代表的作品の1つだ。人間の五感、そして第六感を超えた器官「第七官」に響くような詩を書くことを意気込むちぢれ毛の少女・町子が小野という家族の家に小間使いとして住み込みで働いている。小野家には3人の男子学生―分裂心理の研究をする一助、もう1人は蘚(苔)の恋愛を研究している二助。そしてもう1人の学生は音楽学の勉強をしている三五郎がいた。一つ屋根の下で暮らす若き彼らはさまざまな事物や出来事を通じて独自の思考をぶつけ合う。
第六感すらも超えた第七官とは何なのだろうか。実のところいかなる感覚や言葉が、どのようにして第七官に作用するのか、文中でその詳細が語られることはない(そもそも第七官というものは尾崎の造語だろう)。それどころか彼女の書いた詩が本文中に現れることすらないのである。その代わり語られるのは、祖母から渡されたちぢれ毛矯正のための美髪料のこと、二助が蘚を培養するために使う肥やしの臭いのこと、小野家に置かれた調律の外れたままのピアノ、甘く熟することのない蜜柑、隣人との手紙越しのやり取り…平凡ながらも違和感を覚えずにはいられない出来事の連続に読み手も町子たちがこれからどこへ向かっていくのかわからないまま読み進めていくしかない。
静謐ながらも事物を通して語られる言葉は次の瞬間には忘れられそうな儚さがありつつも彼ら自身の性格や気持ちの揺れ動きを伝える。森の中で人知れず植物が一生を終えていくような細やかさと強さを併せ持っている。大きな事件がほとんど起きないのもあって出来事一つ一つの輪郭は読者にとってすぐ朧なものになってしまう。それでも感じたはずのない臭いや不協和音、味覚が読書の記憶の中で不思議と残っているような気がしてならない。
後年に尾崎翠の作品が花田らによって「再発見」されたのは、そんな風に彼女の言葉やモチーフの残滓が胞子のように残っていたからなのかもしれない。私たちの頭の中にぼんやりと甦るあの妙な感覚は果たして「第七官」と呼ぶべきものなのだろうか。
書き手 上村 麻里恵
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