毎週一冊おすすめ本をご紹介いたします BOOK LAB.
「ノラや」
内田 百閒(中公文庫 改版1997年改版、初版1957年)
内田百閒は戦後日本を代表する文豪の1人。彼は夏目漱石の門下でもあり、幻想的文学や随筆をはじめとする作品を多く世に出した。彼の作品でもとりわけ猫をテーマにした文学紹介などでしばしば取り上げられることも多いのがこの『ノラや』に始まる一連のエッセイである。
百閒はもともと猫嫌いであった。そんな彼が家にひょんなことから自宅の敷地で生まれ育った猫に次第に愛着を覚え、飼い猫とするようになる。百閒はこの猫をノラと名付け、細君とともに我が子にようにかわいがるようになっていた。魚やミルクなど特別に食べさせ、寝床を用意する。猫に絆され、愛玩する百閒の様子は何だか微笑ましい。
ところが、4月のある日にノラはいつもどおり散歩に出たきり戻ってこなくなった。
何日経っても戻らないノラを百閒は我が子の行方がわからなくなったかのように心配し、方々に掛け合って何とかノラの所在を掴もうとする。しかしどんなに探しても、どんなに待ってもノラは現れてこない。百閒と妻は不意のきっかけでノラとの思い出を回想しては涙にくれる日々を送るようになり、猫の気まぐれさに一縷の望みをかけて「ノラは必ず帰ってくる」と今日も帰りを待ち続ける…。
表題にある通り、この本の一連のエッセイは愛猫ノラについて書かれたものであるが、百閒はノラを待つうちに自宅に現れたもう一匹の野良猫・クルとも心を通わせ大切な家族とするようになる。ノラ以外は求めていないのだとクルを近隣に暮らす一野良猫としてしかみていなかった百閒もいつしか家にいつくようになったクルを溺愛するようになる。ノラの帰宅を待ち、ノラとの思い出を追慕しながらもクルを新たな一家の一員として受け入れるようになったのである。しかしクルは出自が野良ゆえか、短命でその生涯を終えることになる。百閒はノラだけでなく、クルを喪った苦しみにも取りつかれるようになる。ノラと内田夫妻の細やかな日々はノラが不意に姿を消したことでひどく不安定でおどおどとしたものへ変わる。『ノラや』本文にもその心情の変化が表れており、ノラが行方をくらましてから、本文は日誌のように日付けが入ったものに変わる。時間の一日一日が「ノラがいない日々」として加算され、張り紙をしても近所の人に情報を求めても芳しい報せが入ってくることのない毎日。百閒があてどなく「ノラや ノラや」と愛猫を呼び涙を流すさまは大切なものの行く末がわからない者のみが襲われる、あの宙ぶらりんにな心情をこれ以上なく痛切に伝えてくる。
百閒の心の揺れを私たちは同じ感触で受け取ることなどできない。誰かの心情を完全に理解したと思い込むことは最も浅慮であると言えよう。しかしそれに近しいそれを読みつぐ私たちも百閒の心を受け取ってしまうと寄る方のない気持ちが表れ、おどおどと惑ってしまう。いつのまにか大切なものになってしまった物事の喪失、そして喪失した人間の情動を通じて二重の動揺が読み手を襲う。代わりなどないのだ、ノラとクルだけが私にとっての「猫」であったのだ、と百閒が温かな支援を受けながらも何よりもわかってほしかったやるせなさは読者をもすり抜けていく。代わりなどあり得ないものが不明になることや不在であることの孤独は皮肉にもその人自身にしかわからない愛情の形を醸成する。
書き手 上村 麻里恵
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