一瞬、グランドが静まりかえったが、桜町町内会長の遠藤が立ち上がり、拍手を送った。 本部席にいる、小学校の池原校長がうなずいている。
「あの子たちかね。牧場旅館の沙織さんが連れてきた子供たちは、実にいい個性を持った子供たちだ。虎と呼ばれている子は、なかなか見所のある子だ。リーダーの風格が備わっている。ベンチから拍手をもらった、バッターボックスの子は、真面目に物事に取り組もうとする姿勢が見える。将来が楽しみな子供たちだ。それと、沙織さんだ。見事に監督の役目を果たしている姿が美しい、これからこの町は、女性に頑張ってもらわなくてはならない。そう思いませんかな、町長さん」 池原校長は笑みを浮かべて、安藤町長を横目で見た。
「大木沙織さんには、頑張ってもらいましょう、私も期待しています」 安藤町長は、池原校長に笑顔を向けた。 一は、バッターボックスに入り、山畑の投げるボールをじっくりと見ることにした。 山畑が球を投げる時の体の動きだ。 足の上げ方、いや、ちがう、一は、高橋君から教わったボールの握り方を思い出した。 ボールを投げるときは、指を縫い目に合わせて投げると、スピードが出るし、変化もするんだ。基本となるのは手首の返し方かな、それと、ボールの握り方を見られないように、グローブで隠しながら、ボールを握ることが大事だよ。 そうか、グローブの中でボールを握るときの時間だ。グローブの動きを見よう。 初球は直球でストライクを取られた。 二球目はスローカーブでボールの判定、三球目のスローボールは、わずかにストライクゾーンから外れ、ボールの判定だ。山畑投手は首をかしげたが、振り返り「しまっていこう」と、仲間に声を掛けた。 四球目が投げられた。
一のバットが振られた、バットに当たったがファウルの判定だ。 五球目は見送り、ボールの判定だ。 ツーストライク、スリーボールと追い込まれた。 一は、山畑のグローブを見極めた。 快音を響かせて、レフト前ヒットを放った。 ノーアウト、ランナー一塁二塁のチャンスを向かえた。 八番は角之進だ。
角之進は、無言のまま、バッターボックスに向かったが、入る手前で振り向きながら、「誰もが安心して受診できる、医療費を見直せ」と叫んだ。 またもや、角さんいいぞ、との声援が飛んだ。 角之進は、スローボールを打ち上げ、アウトとなったが、ベンチに戻る角之進の口元からは笑みがこぼれていた。
ツーアウト、ランナー一二塁で、朝倉がバッターボックスに入った。ヒットが出れば、篠原兄がホームを踏むことになる。チャンスを活かせるか、勝負の時を向かえた。 朝倉は、スローボール狙いに絞った。朝倉のバッティングでは、バットの芯に当たらなければ、センター前又はレフト前のヒットにはならない。朝倉は、自分のバットの振り方の弱さを実感している。幸町チームに所属していた時に、何度も下谷監督に指摘されたのだ。ピッチャーに、そこまで注文するのは酷な話しだが、キャプテンがピッチャーなら、自ら点を叩き出すことも要求されるからだ。 朝倉は、キャプテン高橋の明るさと優しさが羨ましかった。どうしたら、仲間を励ましながら、試合に勝てるのだろうと、考えるようになったのだ。
ワンストライク、ツーボールのカウントから、山畑はスローボールを投げた。 朝倉は、標準を合わせたが、ボールに回転がかかり、カーブかっている。バットは止められない、ボールに当たったが、朝倉はセカンドゴロに倒れ、チェンジとなった。 チャンスをものにできなかったことを嘆いた。 「朝倉君、次は必ず打てるよ、あの変化球を当てるのは、君しかいないもの。虎之助君は、そろそろ疲れて来るころだから、しっかり守ってあげてね」 高橋は、ベンチに戻ってくる朝倉に声を掛けた。 「朝倉君、僕の分まで頑張ってほしい」白鳥がベンチで向かえた。 朝倉は笑った。そして、うなずき、グローブをはめて、ファーストへ駆けていった。 二回の裏、混合チームの攻撃だ。
太が、しまっていこう、と声を掛けた。 六番バッターからの攻撃だ。 攻撃のバッターは、六番高山、七番高倉、八番田口と続く。 高山は、バッターボックスに入るなり、スクイズの構えだ。 「しゃらくせい」虎之助は速いボールを投げた。 虎之助のボールは、剛速球ではないが、胸元でホップするのが特徴だ。長身から投げ下ろす力と、投げるときの手首の強さだろう。虎之助の上半身は、大人と変わらない体格なのだ。 高山は初球からバントだ。
虎之助の重いボールが、バットを押し返した。 キャッチャーフライで、太がしっかりとボールをキャッチした。 七番高倉は、サード強襲のワンバウンドの内安打を放ち、八番田口は、ショート前に強烈なゴロを放った。ショートの篠原弟は、受けるのが精一杯だったので、ランナーは一塁二塁となり、足を使った混合チームの攻撃が始まった。
虎之助は、ランナーをけん制せずに、どんどん投げていくタイプだ。混合チームにして見れば、盗塁で攻めるには都合の良いピッチャーだ。 九番はピッチャーの山畑だ。 虎之助は、高橋から教えてもらった、落差のあるスローボールを投げた。ボールはゆっくりと放物線を描きながら、キャッチャーミットに収まった。 ストライクのコールだ。
虎之助は、どうだ、俺の山おろしは、と言わんばかりの顔をした。 山畑は、自分の投球を真似られたことに腹を立てた。 二球目も同じ球を投げてみろ、センター前にはじき返してやると、山畑は小声でつぶやいた。 山畑は、二球目の直球を見逃し、三球目の直球を空振りし、三球三振を味わった。 ツーアウト、一塁二塁で、伊藤三兄弟に打順が回ってきた。 三浦監督は、伊藤三兄弟に指示を送った。
「この回で一点を取らなければ、すぐ追いつかれてしまう。桜町のピッチャーは三人だ。虎之助に、この回でダメージを与えなければ、我々が不利の試合運びとなる。バントヒットで攻めまくる、この回は、小谷兄弟と高山まで、つなぐことがお前たちの役割だ」 三浦監督は、伊藤三兄弟の肩を軽く叩きながら、ベンチから送り出した。 虎之助は、直球と山おろしを交互に投げたが、バントで攻められた。 伊藤五年生の伊藤正和は、山おろしをバント、サード前に転がし、ランナー満塁にした。 前進守備をしていればと、一は悔やんだ。 伊藤四年生は、送りバントは得意だが、ツーアウトの状況で、バントをするのは、アウトになる可能性は大きいのだ。
サードの一は、角之進から前進するよう、指示を受けている。 伊藤四年生は、三浦監督とマンツーマンで、バントの練習をしたことを思い出していた。 「良太、お前は四年生だ。これから、このチームを引っ張っていく使命がある。お前の役目は、前に出た一塁ランナーを、二塁へしっかりと送ることだ。これから始める特訓は、バントしたボールを指示どおりの場所に転がすことだ」 三浦監督は、伊藤良太を送りバントの名手に仕立て上げた。 セカンドなら、手足の長いピッチャーに捕球される、サードは前進守備、ショートの守備は深い、ならばショートの正面に転がそう。 虎之助は直球を投げた。 ストライク、伊藤良太は見送った。 山おろしに、バントの標準を絞った。 落差のある、山おろしが投げられた。 来た、バントは成功、ショートの正面に転がした。 篠原弟が捕球し、ファーストに投げたが、判定はセーフだ。 伊藤三兄弟の足の速さは、人並みではなかった。 サードランナーが、ホームベースを踏み、一点を先取された。 なおも、ツーアウトで満塁のままだ。
女将はタイムを告げて、虎之助の元へ走った。 「虎、まだ、投げられる」 「監督、俺を変えないでくれ、俺には決め球がある。この試合、俺に預けてほしい」 虎之助は、燃えるような眼差しを女将に向けた。 「わかったわ、皆に伝えるわ」女将は虎之助の腰を軽く叩いた。 「桜町のナイン、この試合、虎が続投する、しっかり守ってね」 女将は、選手たちにエールを送った。 「しまっていくぞ、虎、稲妻落としを投げろ」太が叫んだ。 「よし、この試合、俺に預けてくれ」虎之助は猛虎のような雄叫びをあげた。 「山おろしの後は、稲妻落としか」 三浦監督は苦笑し、虎之助の決め球を見極めることにした。
伊藤六年生が、バッターボックスに立った。 既にバントの構えだ。 初球の山おろしは見送ったが、ストライクをとられた。 二球目の直球は当てたが、ファウルボールだ。 伊藤高広は、ツーストライクに追い込まれたが、余裕の笑みを浮かべている。 「いくぜ、稲妻落としだ」 虎之助は、外角高めの直球を投げた。 ボールは、ど真ん中のストライクコースに入っている。 伊藤高広は、渾身の力を込めて、バットを振った。 ストライクバッターアウト、チェンジのコールが、主審から告げられた。 「フォークか、稲妻落としは、フォークボールか」 三浦監督は、虎之助のピッチングに戦慄を覚えた。
しかも、落差のあるど真ん中に入ってくる、フォークボールだ。落ちなければホームランだが、落ちれば間違いなく三振だ。 桜町少年野球部は、即席のチームと聞いていたが、一人一人が、並外れた実力を兼ね備えているチームなのか。 虎之助という少年のピッチング、虎之助を支えている、太というキャッチャー、センターを守っている少年の足の速さ、監督の代わりに指示を飛ばしている、ライトを守っている角さんと呼ばれている少年、サードを守っている少年の瞬発力、どれをとっても素晴らしいものがある。 大木監督、あなたは、この試合に何を掛けていらっしゃる。
私はこの子たちに、町場に出ても対等に競え合える力をつけたくて、この混合チームの結成と野球大会への参加を小学校と役場に提案させてもらった。開成小学校とパンケ・中成小学校は、複式学級の小さな分校だ。今年の四月から、統廃合になり上下町小学校に編入された。
私は、役場が雇用するスポーツ・トレーナー制度に応募し採用された傍ら縁あって、この子たちに野球を教えることとなった。 開成の小谷兄弟と高山、パンケの伊藤三兄弟と高倉、中成の山畑と田口だ。このナインの力を結集して、チームを編成すれば、今までにない機動力野球が実現すると思った。 この子たちには、何事にも前向きに行動してもらいたい、怖じ気づくこと無く、堂々と意見の言える子にしたい、仲間を守り、助け合う心を持たせたい、その一心で、私は、監督を志願したのだ。 大木監督、私は、この試合に掛けているのです。この子たちの将来のためにも、絶対に負ける訳にはいかないのです。若い頃に、リトルリーグの守備走塁コーチと監督代行をして、培ってきた誇りがあるからです。
三回の表、一点を追う桜町チームの攻撃だ。 「監督、僕の話しを聞いてくれますか」一はグローブをはめていた。 「一、どんな話しなの」 「相手チームに見られないように、僕を囲んで下さい」 女将は虎たちに、一を囲むよう促した。 「いいですか、これは僕の感です、見て下さい」 一は、グローブに注目させると、立ち膝となって説明をした。 グローブを立てて投げるときは直球、グローブを横に傾けて投げるときはスローボールとスローカーブ、何故なら、直球の場合は縫い目に指を合わせるのに時間が掛からないこと、変化球の場合は、縫い目の合わせ方ひとつで、球種が変わるので、とくにスローカーブの場合は、直球よりも時間が掛かり、グローブの中で動かすので、グローブを横にした方が合わせやすいことです。でも、これは僕の感ですから、間違っているかも知れませんが、この回は、みなさんで山畑投手のグローブに注目していただけませんか」 「一、ありがとう、みんな、山畑投手のグローブの動きをよく見てから、打てるボールを選んでね」 女将は、ナインに円陣を組むよう指示をした。
キャプテン高橋の声は青空に響いた。 「監督、必ず、塁に出るからな」 隼人が木製バットを手にして、バッターボックスに向かった。 「女性の働ける職場を増やせ、女性の地位向上のため、男たちは頑張るぞ」 隼人、女性のために俺たちも頑張るぞ、応援ベンチからの声援に励まされながら、隼人は、バッターボックスに立った。
隼人、一番バッターは、どんな状況にでも、必ず塁に出なくてはならないの、智恵を絞って、点を取るチャンスをつくらなくてはならないの。あなたならできるわね。 隼人は、監督の期待に応えるために、一の観察力を信じることにした。 狙い球は直球だ。 「鉄壁の守りであっても、矢のとおり道は必ずあるはず」隼人は構えた。 スローカーブ、スローボールと、高めの直球はファウルボールだ。 ツーストライク、ワンボールと追い込まれた。 グローブが立っている。 直球か、一の言葉を信じるのみ、隼人はバットを振った。 センター前ヒットだ。 俊足の隼人は、セカンドまで走り抜いた。
「監督、僕も打って良いよね」篠原弟がたずねた。 「いいわ、隼人はセカンドまで行ったから、思い切り飛ばしてきなさい」 女将は、篠原弟の帽子のつばをタッチした。 篠原弟は、ブイサインを出して、バッターボックスに駆けていった。 篠原弟こと、篠原大河は、キャプテン高橋に、試合に出られないことに腹を立てたことがあった。近いうちに仲間を集めて試合をしよう、君は不動の二番バッターだ。だから、送りバントの練習をしよう、ランナーを塁に進めるのは、君の役目だからね。試合が出来る日を夢見ながら頑張ろう。大河は、高橋の言葉を信じ、夢が実現したのが嬉しかった。 だからこそ、大河は、思い切り試合を満喫したいのだ。 「一君、僕はスローボール狙いでいくからね」大河は笑みを浮かべた。 キャッホー、グローブが横になった。
大河は嬉しくなった、もう初球から打つ構えだ。 曲がるな、心で念じながら、スローボールを打った。 セカンドへのゴロだが、セカンドがエラーをした。 隼人は動かず、ランナーは、一塁二塁だ。 毎試合、送りバントばかりの大河にとっては、初の内安打となった。 大河は、一塁ベースをしっかり踏みしめながら万歳をした。 「監督、篠原大河の初ヒットだ。思い切り誉めてやりなよ」 虎之助は、無邪気に振る舞っている、篠原弟が可愛く見えた。 「俺にもあんな時代があったかな」と虎之助はつぶやいた。 「ないよ」太は、ぶっきらぼうな回答を残して、バッターボックスへ向かった。 「この野郎」虎之助は毒づいた。 そう言ったのはいいが、太は、何を宣言するのか忘れてしまった。一に聞いていたのだが、台詞を忘れてしまったのだ。
旅は覚えているんだがと、太は、にこにこ笑いながら宣言した。 「かわいい子には旅をさせよ、旅をするなら熊本に来てくれ、お姉ちゃんはきれいだぞ」 太は、破れかぶれで宣言をしたのだが。 いいぞ、今度の町内会の旅行は、熊本市の熊本城だ。いいぞ、観光大使。 ワーッと、親父たちは盛り上がったが、奥様たちのひとにらみで凍りついた。 虎之助たちは、腹を抱えて笑った。
「虎之助君、笑いすぎだよ」キャプテン高橋が、小さな声で注意をした。 「本当に、義太夫は馬鹿ね」女将は、小声でつぶやきながら、笑いを堪えていた。 太は、スローカーブを打たされ、サードゴロでアウトとなった。 ベンチへ戻る太に、観光大使、次の打席でホームランを打ってくれと、激励のエールが響き渡った。太はにっこりと笑い、応援席に向かって頭を下げた。 「太、俺が一点を叩き出すからな」
虎之助は、太の手の平にタッチをしてから、バッターボックスへ向かった。 「虎、必ず打ってね」女将は願いを込めた。 一よ、お前の忠告は、間違っていることはなかった。俺は、いつでもお前に諫められてきた。そして、頼りにしてきた。お前を朝鮮から連れて来たのは、左官の技術はもとより、庶民の指導者になれるとの期待があったからだ。
一よ、この虎之助、必ず塁に出て、隼人にホームベースを踏ませてみせるからな。 虎之助は、バッターボックスに立ち、直球に狙いを定めた。 グローブが立っているぞ、もらった、虎之助は、渾身の力でバットを振ったが、緩い直球だったので、タイミングを外され、ファーストゴロでアウトとなった。 「無念」虎之助は残念そうにベンチに戻った。 三回の表、ツーアウト、ランナー一塁二塁で、桜町チームが一点を追う展開となり、後のない状況だ。このままでは、混合チームに勝ち逃げされてしまう。 橋詰は、山畑のグローブの癖を、もう一度、一に聞いた。 「一君、ありがとう」橋詰は一に礼を言った。 「監督、僕は、みんなみたいに器用じゃけれど、一か八か、これをしてもいいですか」 橋詰は、小さくバントの構えを見せた。 「いいわ、好きな球を狙いなさい、ランナーには合図を送るから」 「監督、ありがとうございます」橋詰はバッターボックスに向かった。 女将は、ヒットエンドランの合図を送り、満塁策を狙った。 橋詰の積極的な姿勢に、女将は感心した。
今までは、提案や意見を述べるような子ではなかった。だが、この試合においては、何か秘めたるものを感じたのだ。 橋詰の兄は、上下町中学校の野球部に在籍している二年生だ。キャッチャー以外なら、どのポジションでも守れる、オールラウンドプレイヤーだ。 大会の前日、橋詰の兄が訪ねて来て、弟を宜しくお願いしますと、頭を下げに来たのだ。 その時に、橋詰の兄は、弟とのトレーニングについて、話しをしてくれた。 橋詰は、兄を尊敬して、兄のように成りたいと常々思っていた。橋詰は、兄に申し入れをして、自分は、どのポジションが向いているか聞いたことがあった。 外野だと言われた。橋詰は、遠投が得意だったので、外野向きだと言われたのだ。本人は、内野を期待していたようだが、外野の理由を聞いて納得したのだ。
橋詰は、肩が良いので、レフトの深い位置からバックホームに返球することができるのだが、サードからだと、勢いあまって暴投することがあったからだ。今から、内野に育ててしまうと、内野手の肩になってしまうことを気にしたのだ。兄は弟に、ここぞと言うときに、効果のあるバッティングを教えた。 バントのタイミング、バットを短く持ち、セカンドの頭を超えるポテンヒットを打つタイミング、外角の素振りや内角の素振り、手に豆ができて血が出るほど練習に励んだ。試合に出られるとは思わないが、練習で精進していれば、きっと叶うはずだ。と、兄の言葉を信じ、練習に励んでいたのだ。 女将は、この子なら次のキャプテンを任せることができる。と、この小さな精進者に望みを託した。 一君、僕は、打ちやすい、スローボールを狙うからね。 橋詰はバットを構えた。
山畑のグローブが斜め横に構えられた。 スローボールか、スローカーブか、曲がりながら落ちるボールだ。 スローカーブか、橋詰は一球を見送った。 判定はボールだ。 次の直球はストライク、スローカーブが再度、投げられたが、ボールの判定だ。 ワンストライク、ツーボールとなり、山畑としては、ストライクが欲しいところだ。 山畑のグローブが斜め横になった。 橋詰は、バントの構えで、スローボールを待った。 内野手たちは、一斉に前進守備のシフトをとった。 橋詰は、バントの構えから一転、バットを短く持ち、走れと叫びながら、ボールを打った。打球は、セカンドとショートの間を抜き、センター前に転がった。 スタートを切っていた隼人は、三塁を回り、ホームベースに滑り込んだ。 同点だ、桜町の応援ベンチは一気に盛り上がった。 ランナーは三塁と一塁だ。
同点に追いついた桜町チームにチャンスが回ってきた。 篠原兄はバッターボックスに向かった。 兄ちゃん、野球ができるよ、試合に出ることができるんだ。小学校最後の思い出ができるよ。嬉しそうにはしゃいでいた、大河のことを思い出した。 六年生に成ったとき、大地は、自分の名前の由来を父に教えてもらった。 大地には川が流れている。父の故郷である石狩には、広大な石狩平野を大きく蛇行しながら流れている石狩川がある。石狩川は石狩平野を潤し、大地に作物の恵みを与えている。お前たちは、人の支えと成り成長していくように、大地と大河と名付けたと、教えられた。 さらに父は、失敗を恐れない強い心を持て、失敗しても失敗したことを反省して、次は成功することを学ぶのだと、教えてくれた。
打つ、タイミングさえ、遅れなければ内野は抜ける。 大地は、一球目を見送り、二球目も見送った。 大河、お前をホームインさせるからね。
大地は、山畑のグローブが斜め横になった瞬間を見逃さなかった。 来るぞ、大地はバットのグリップを強く握った。 スローボールか、大地のバットがボールを捉えたが、バットをかすめてゴロとなった。 セカンドゴロでアウトとなり、チェンジとなった。 桜町チームは、大きなチャンスを逃してしまった。 「大河、こめんな、お前をホームに返すことができなくて」 「兄ちゃん、気にするなよ、この試合は、全員野球で勝たなくちゃならないんだ」 大河は力を込めて言った。 大地は、グローブをはめてから、大河の背中を押して守備についた。 三回の裏、混合チームの攻撃だ。 「しまっていこう」太が叫んだ。
女将は、混合チームの底力に感服していた。桜町チームと同じ、ただの寄せ集めチームだと、侮っていたのだ。だが、どこまでも食いついてくるような気迫を感じる。スクイズ攻撃、連続盗塁、鉄壁の守備、今まで見たことの無いような攻撃をするチームなのだ。少年野球のレベルが、ここまで上がっていようとは想像もつかなかった。このまま負ける訳にはいかない、せめて引き分けても、幸町チームとの試合では、必ず勝つ勝負をしなくてはならない。虎之助の稲妻落としに望みを賭けてみようと思った。 虎之助は、キャプテン高橋から教えられた稲妻落としのフォークボールと直球の投球回数を考えていた。初球は内角へ、二球目は外角、三球目は稲妻落としのフォークボールを投げるといい、高橋は、虎之助にアドバイスをしていた。
太は、キャッチャーミットを内角に構えた。 虎之助の上半身は、弓のようにしなりボールを投げた。 初球はストライクだ。二球目外角は空振り、三球目は稲妻落としのフォークボールだ。バットは空を切り三振に打ち取った。 三浦監督は、虎之助の強靱な上半身に注目をした。 見事な投球フオームだ。長い腕から振り下ろされて投げられるボールは、回を追うごとに勢いがついて、フォークボールにも落差がついてきている。次の回では、スクイズ攻撃で突破するしかない。この回は、投球リズムを読み取り、次の回に攻撃を仕掛けよう。三浦監督は、高倉を呼び、ピッチング練習をするよう指示を出した。
虎之助は、三球三振に打ち取り、見事なピッチングを披露した。 四回の表を向かえた。 女将は、この回で点を入れなければ負けることを部員たちに伝えた。 一が、バッターボックスに入った。 投手は、山畑から高倉に交代していた。 高倉のボールは、初球から真っ向勝負の勢いがあった。初球からグイグイ押してくる投手のようだ。 虎之助と同じような、伸びのあるストレートだ。 一は、ツーストライクと、追い詰められた。 次もストレートか、一はつぶやいた。 ならば、打たせてもらうよ。
一の快心の当たりは、セカンドとショート間を抜いた。 角之進は、送りバントの合図を監督から受けてから、帽子のつばを押さえてうなずいた。 この試合は、一点でも多く点を入れたチームに、勝利の女神は微笑むのだ。 練習の時、虎之助のボールをバントしたときを思い出した。当ててもバットが弾かれ、キャッチャーフライになった。一の一撃は、ボールを単に当てたような強さだ。渾身の力で振り切ってはいないはずだ。だとしたら、球質は軽いはず。角之進は、スクイズのボールをサードに転がすことに集中した。 さあ来い、角之進は身構えた。 来た、角之進はスクイズの構えに切り替えた。 ボールを当てながら、バットを引いた。 一は、セカンドに滑り込んだ。 サードの山畑が、ボール処理に遅れた。 角之進は、ファーストに頭から滑り込み、セーフのコールが告げられた。 朝倉は、大事な場面を任されたと緊張していた。 初球を見送り、三球目を当てたが、サードライナーとなり、ワンアウトを取られた。 ランナーは、一塁と二塁、一発ヒットが出ればリードできるのだ。 四回表、ワンアウト、ランナー一塁と二塁、最高の場面で、打順は一番に戻り、センター隼人がバッターボックスに立った。 ベンチからは、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
この大会では、一度も三振はしていないし、全試合、連続安打を更新している。最強の 一番バッターだ。 隼人はボールを選んだ。 一球目、二球目、三球目とボールを見極めることに集中した。 隼人の手に力が込められた、バットが振り出された、しかし、ボールをかすめた当たりだった。ファーストゴロで、併殺打となり、ツーアウトをとられ、チェンジとなった。 ベンチへ戻る隼人に、虎は声を掛けた。 「隼人、気にするな、次の打順でかっとばせ」虎は隼人を迎え入れた。 「虎、あいつは虎と同じ、稲妻落としを投げたぞ、俺は絶対に打てる位置にバットを振った。だが、ボールが落ちた、いや、ボール少しずつ落ちていったか」 隼人は、悔しそうに唇をかんだ。 女将は、皆を集めて伝えた。 「ここまで来たら後がないわ、点を入れさせない、取られない、この試合、引き分けるのも作戦のうちよ。その代わり、幸町チームには絶対に勝ちましょう」 女将は、混合チームとは引き分け、幸町チームには勝つ、混合チームの実力ならば、幸町チームには絶対に勝てる、そうすると、決勝での再試合ができる。
女将は、最終決戦をもう一度、混合チームとの戦いにもっていきたかった。 「隼人、あのボールは、朝倉君の投げる、スライダーかもしれないわね。決め球に投げるはずよ、みんな、次の回では、ストレートが来たら打ちなさい。この回は、必ず守り抜いてね」 「よっしゃー、仲間を信じて行こうぜ」丸井が一声をあげた。 虎たちは、勢いよくベンチから駆けていった。 四回の裏を向かえて、混合チームの攻撃が始まった。 虎之助は、マウンドに立ち、バッターボックスの高倉を捉えた。 どちらのボールが速いか勝負だ。 伸びのあるストレートが、内角に決まり、ストライクのコールが響く。 高倉は、ど真ん中のストレートを狙っていた。 フォークボールを自在に投げるには、高倉は半年間、血のにじむ練習を積んできた。た がが、一週間そこらで覚えた、フォークボールと一緒にされては、誇りを傷つけられたような気がするのだ。
外角高めのストレートが来た。 高倉は見逃さなかった。だが、バットは空を切った。 ストライクバッターアウト、高倉の背後で、悔しいコールが響いた。 落差のあるフォークボールだ。 高倉は、虎之助のフォークボールを本物と思った。去り際に、虎之助に頭を下げてベンチへ去っていった。虎之助も頭を下げ、高倉のバッティングに敬意を表した。 虎之助は、高倉の態度を見て、侍の心をもった男だと思った。 虎之助は、幼少の頃より、木刀を振り回しながら野山を駆けていた。少年期に入ると、重い太刀を、重い槍を振り回した。来る日も来る日も、武芸の練習に一日を費やした。手の平にできた豆はつぶれ、血を流しながらも己を鍛えたのだ。太刀や槍を自在に振れるようになるまで、何年も掛かったが、決して練習を怠ることはなかった。 高倉も努力の男だろうと、虎之助は感じていた。 次のバッターの田口、山畑も続けざまに、三球三振に打ち取り、最終回を向かえた。 桜町チームのベンチでは、女将が部員に指示を与えていた。
「いよいよ、最終回の攻撃よ。混合チームは、思ったより実力のあるチームね。みんな、良く頑張ってくれた、悔いの無いようにハッスルプレーで守り抜いてね」 「監督、まだ、試合は終わっていません。この後には、幸町チームとの試合があります。僕たちの実力なら、幸町には絶対に勝つ自信があります。この試合は、最後まで守り抜いて、引き分けに持ち越し、監督が言うように最終決戦で決着をつけましょう」 キャプテン高橋の顔は、自信にあふれていた。 「監督、まだ、試合は終わっていませんよ。俺たちのハッスルプレーを見て下さい」 隼人が照れながら笑みを浮かべた。 「監督、優勝したら焼き肉が食いたいな」 太の一言が、場を和ませてくれた。 部員たちは笑った。
「よっしゃー、しっかり守ってくれよ。俺とキャプテンは、小学校最後の試合となるからな、頑張っていこうぜ」丸井の一声で、みんなは心をひとつにした。 篠原大河は、バッターボックスに入った。 兄ちゃんは、僕に言ったね。どんな状況でもバントのできるバッターになれと。 「大河、思い切りかっ飛ばせ、バントはしなくていいぞ」 兄の篠原大地が、弟に指示を送った。 前進守備だったサードが、ベースまで下がった。 兄ちゃん、僕の成長をしっかり見てね。 ピッチャー高倉の初球が投げられた、大河はバットを持ち替え、スクイズの構えを取った。バント成功、サード前にボールは転がった。 大河は滑り込み、内安打にした。 桜町の応援ベンチから歓声があがった。 太がバッターボックスに入ると、外野も内野も後退した。 「太、焼き肉が掛かっているぞ、ホームランを打て」 応援ベンチの笑いを誘うように、角之進が叫んだ。
太は、初球、二球目、三球目を見送り、ワンストライク、ツーボールのカウントとなった。太は、四球目の直球のとき、スクイズに構えた。 両ベンチからは、ウォーと響めきが起こった。 送りバント成功、大河をセカンドまで送ったのだ。 太はファーストベースを踏むことも無く、アウトとなった。 「監督、俺たちを最後まで支えてくれ」 そう言いながら虎之助は、バッターボックスに向かった。 虎、いや、加藤清正虎之助、正念場の底力を見せてくれる。女将は期待を込めた。 高倉投手、貴様のフォークボールとやら、今一度、俺に見せてくれ。虎之助は、高倉の本当のフォークボールを見たいと思った。隼人を三振に打ち取った、変化球を見たいと願った。 虎之助は、バッターボックスに入り、帽子を脱いで高倉に一礼をした。 高倉も帽子を脱ぎ一礼で返した。