水晶萬年筆
吉田篤弘(中央公論新社 2010年)
「水晶萬年筆」―繊細で涼やかな姿を想像せずにはいられない。透き通っていて硬質なペン先は力を入れれば簡単に砕けてしまうのだろう。「水晶萬年筆」はそのうちの一編のタイトルであり、また作中で登場するアイテムでもあるが、同時に作品の細やかさとそれを表すための言葉を象徴していると言える。
この作品集は十字路を重要な岐路とする6つの短編から成っている(文庫化前のタイトルは『十字路のあるところ(朝日新聞社刊・2005年発表)』であった)。この作品に登場するのは執筆のために「格別に甘い水」を探しに町を彷徨う物書き、下町に住みながら影を描く画家、新しい言葉を独自に研究する師弟の研究者、ファンファーレ作曲家とその弟子といった風にどこか風変わりな生業を持つ人々だ。彼らが十字路で出くわす出来事と人物たちの対話によって物語は展開していく。
文庫版になる前の本作『十字路のあるところ』には写真家・坂本真典による十字路の写真が共に掲載されていた。坂本によるモノクロ写真は吉田によれば実在する東京の十字路を撮影したものであり、その写真が物語の土台にもなっていたという。文庫化にあたって写真は姿を消してしまった。しかしながら文章のみで再編集・修正することによってこの作品はより言葉や行為が先鋭化されたように思われる。小説の骨子になっていた現実とそこから生まれた小説との交叉を味わう醍醐味を持っていた作品から、写真が消えることによって作品およびモティーフは登場人物たちの心の動きや行為の前触れを読者へと提示する。
作品全体を通して作者の吉田は言葉で最も掴みにくいものを描いているとも言える。何かが始まる予感、もしくは登場人物たちがもう一歩外へと踏み出すその瞬間に迂闊な名前などつけないように慎重に繊細に描写することを試みている。少しでも力を入れすぎれば折れてしまいそうで、落とすなんてもってのほか―そんな水晶萬年筆が作中の人物たちの行為を象徴する。少しでも強い断定を使えば瞬く間にその輪郭は溶けてなくなってしまう。知覚し、理解することはできるが非常にささやかな未来の起こりを吉田はこの作品を通して掬い上げようとしているのだろうか。
書き手:上村麻里恵
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