「黒猫の遊歩あるいは美学講義」
森 晶麿 (早川書房 2011年)
大学で美学を指南する若き教授。気まぐれでいつも黒いスーツを纏う彼は「黒猫」と呼ばれている。そして彼の「付き人」は黒猫の同期で博士課程の学生だ。本作は教授と付き人の関係にあるバディが周囲で起こる謎に対し、美学と芸術学を鍵にして謎に迫っていく物語である。「僕が行うのは美的推理であって、導き出された真相が美的なものでなければその時点で僕の関心は失われる。美的でない解釈が解釈の名に値しないように、美的でない真相もまた真相の名に値しない」黒猫の行う推理は徹底的にテクストや美学の思想に基づいており、よくあるミステリ小説とは趣向が異なっている。
ところで、美学や芸術学は日常生活において馴染みがあるという人の方が珍しいかと思う。大まかに言えば作り手が何を美しいとしたのか、逆になぜ醜いのかということを考えるのが美学だ。芸術学はさらに幅広く、美術史や美学などから作品のモチーフや事象を紐解く、もしくは新たな解釈を導くことをする。その対象となる作品や作家はさまざまだ。
こんな風に言うと小難しい作品のように見えてしまうかもしれない。確かに黒猫やその他キャラクターたちの言葉が持つ深い洞察は何度読んでもいまだ噛み砕くことが難しいものも多い。これらの難解かもしれないが、それでも私がこの作品を何度も読み返す理由、そして作品の魅力だと感じているのはモチーフや物語の土台となる作品がこの上なく惹きつけられるものだからだ。
本書に収められている短編はすべてポーの作品をモチーフにしたものであり、ポーを一度でも読んだことのある人ならば著者の森によるポーの独特の抽出は癖になること間違いなしだ。ポー以外にも、世阿弥やニーチェなど芸術や文芸、宗教に広く関わりのある思想や著作が登場する。それらをいわゆる原作とした作品づくりは読み返す度に少しずつ明瞭になってゆき、そしてその奥深さを噛み締められるようになる。それは精巧でデリケートなパズルを慎重に解いていくような感覚へ私たちを誘うようだ。作品内に登場する魅力的なモチーフはちょっと堅そうで近寄ることを戸惑うあなたを招き入れるエッセンスとなる。架空の地図、喋る壁、香水の流れる川、…もし惹かれるものがひとつでもあったならそこから読み始めてみてほしい。
美学や芸術学が直接生活の役に立つかは人による。そしてそれらに取っ付くのは時に助走が必要だと感じることもあるかもしれない。しかしながら、この作品を通して物語の面白さに触れることは同時に、美学や芸術学、あるいは数多の芸術自身が行ってきた先人の想像力を何度も味わい直すという豊かな営みを体感することにもつながってくるのだ。
またこの作品のバディが若き教授と博士課程の学生というのは注目すべきポイントだ。森本人が美学や芸術学を学ぶ学生であったという経験が強く根付いている。特に本作は森が修士論文を執筆していた頃に書かれたものであり、研究を身近にしていた森だからこそ書くことができたであろう、研究者やその卵たちの学問や研究に対する姿勢を感じられるのも魅力の一つだ。
この作品は本作を含めて現在8冊のシリーズが出ている。巻き起こる謎に対して美学的姿勢、そして研究者としての姿勢が表れている。どれも魅力的な作品なので気になった方は続刊もお手にとってみてほしい。
書き手:上村麻里恵
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