雪の練習生
多和田葉子(新潮社 2013年・文庫版)
多和田葉子の書く小説には一見するとささやかな歪さがある。読んでいると読者である私たちは「なんだか変だなぁ」、「それはこういうことなのになぜ説明がないのだろう」という感覚を覚える。その違和感は解消されることはなく、時間の流れるままに次の行動が起きていく。この妙なもどかしさの正体は一体なんなのだろうか。
『雪の練習生』はあるホッキョクグマを主人公とした3代にわたる物語だ。冷戦下を思わせるロシアに暮らすメスのホッキョクグマ「わたし」は元サーカスの花形であったが引退後は事務職に就き、会議でも積極的に発言する模範的な一市民として生活している。ひょんなことから書いた短い日記が文芸誌に掲載されて伝記として連載されることになってしまう。彼女の「伝記」は知らぬ間に西側諸国の間で大絶賛を浴びるようになるが、それが彼女の数奇な亡命生活とその後の物語の始まりへとつながっていく。物語は全部で3章に分かれており、1章が「わたし」、2章では彼女の娘でサーカス小屋に暮らすトスカ、そして3章ではトスカの息子で動物園育ちのクヌートの物語が展開される。
物語の中ではホッキョクグマほか一部の動物たちが人間の社会に溶け込んでいるようだが、あくまでサーカスの一員であったり、どの動物も言葉を話したり社会参画するわけではない。この時点でこの小説における社会の輪郭がどこかぼやけていることを私たちは薄々自覚するようになる。加えて「わたし」たちホッキョクグマは作中では台風の目のような存在として描かれる。周囲が慌ただしく騒がしく動き回る中、彼らの心は別のものを見ている。当事者たちの心の機微と周囲の反応にズレがあるのだ。それは彼らが動物だからとか、無知だからといった理由ではない。彼らの中には意思や意見は確かにあるが、それが主張されたり、対話が起きたりすることはあまりない。それ故に物語の中では何度もすれ違いが起きるのだ。その溝が少しずつ大きくなるにつれ、自身は深く複雑な思考の海に沈んでいく。
その思考や感情は容易に名前がつけがたいものだ。例えば、2章で描かれるトスカとサーカス団員のウルズラの公演は官能的で危険だが、そこには明確な愛情といった表現は見当たらないし、実際に彼女たちの関係性を「愛」と乱暴に括ることには違和感がある。3章の主人公クヌートが育ての親である人間のマティアスに抱く感情にもこれに近いことが言える。親以上の親愛を匂わせるものの家族愛の延長線に過ぎないような、一般化されるような感情の名付けをこの物語はやんわりと拒否する。孤高の中で堆積していく思考や感情にはどうにも確かな言葉が当てはめられない。
読者である私が感じた歯にものが挟まったようなもどかしさは多和田による感情や状況描写の巧みさによるものではないか。形にならない感情について状況と視点とを駆使して言外に察知させる描写が非常に巧みでありつつ、全てを説明しきるようなことは決してしない。この絶妙な塩梅で読者は霧がかったような雪の中にいつの間にか迷い込んでしまっている。もどかしくも丹念に積み重ねられたホッキョクグマの数奇な生の回想にぜひ足を踏み入れてほしい。
書き手:上村麻里恵
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