こちらあみ子
今村夏子(筑摩書房 2014年)
この世界は明文化されていない暗黙の了解というものに覆われている。人々の間を覆う無数の「常識」や「普通」は不文律として他者との生活における共通理解として信頼の基盤ともなるものだ。『こちらあみ子』を表題作とする3つの作品はそんな不文律を飛び越えたり、こっそりと逸脱する人々が描かれている。その様は時に他者を動揺させ、もしくは高揚させるものとして小説の中の人物だけでなく、読者である私たちにも伝播する。
表題作「こちらあみ子」は少女・あみ子の視点から彼女の家族や同級生を描く物語だ。あみ子は温厚な父、もうすぐ臨月を迎える母、あみ子の面倒を見る兄に囲まれて暮らしている。人々との出会いや出来事、そしてそれに対するあみ子の行動は人々の運命を思わぬ方向に押し進めていく。
真っ直ぐなゆえにあみ子の行動は世間を薄く覆う常識など気づかずに通り過ぎる。さながらつむじ風のような彼女が起こす行動や発言は周囲の人たちには時に受け止めきれないほどの衝撃を与える。あみ子にとってそれぞれの行動には彼女なりに意図がある。流産してしまった赤ん坊の墓を作り、大好きな同級生に自分が美味しいと思ったチョコレートクッキーのクッキーの部分をプレゼントする。だが周囲の人々にはそこに「普通」が欠落しているのを目の当たりにしてしまう。行動を司り、他者との関係を築く基盤となっているはずの普通が抜け落ちていることに人々は困惑し、慄く。その不文律に頼ってきた彼らはその欠落をあみ子に説明できないまま、時に壊れ、狂気に陥り、そして何も言わずに去っていく。互いの行動規範が掛け違ってしまったゆえにその結果はあまりにも寂しい。取り残されていくあみ子は「…(前略)…なんで誰も教えてくれんかったんじゃろう。いっつもあみ子にひみつにするね。絶対みんなひみつにするよね」(111頁)といつもの調子のまま誰に言うわけでもなく話しかけるのだ。
あみ子はいつだって真っ直ぐな少女だ。彼女の心と身体はあまりにも一直線に相手に向かって飛んでいく。何もかも飛び越して猛スピードで突進し他者を彼女自身の想いだけで形成された純真さで吹き飛ばしてしまう。登場人物だけでなく紙面を超えて読者の境界をも飛び越す彼女に読み手は本を開くたびにさまざまな感情を抱くだろう。それはひょっとすると背筋の凍るようなおぞましさ、あるいはもう取り戻すことのできない解放感かもしれない。
同時収録されている「ピクニック」、「チズさん」も何かを飛び越えているという点を同じくしつつも、「あみ子」とはまた違う側面から描き出した2作品だ。「ピクニック」では、ローラースケートとビキニ姿で接客する飲食店を舞台に、有名タレントの恋人を自称する年齢不詳の女性・「七瀬さん」と彼女の同僚が織りなす日々を描く。七瀬さんの浮世離れした存在と同僚たちの友情、そして七瀬さんの行動を中心とした細やかな非日常に対し、私たちは歪みを感じずにはいられない。言語にも態度にも七瀬さんの言動を疑うものがいないことの違和感(ただし、その歪さを指摘する人物が物語の後半に登場する)、同僚たちがどこか他人事のように彼女の運命を紡いでいく様子には、大事な一線を超えてしまった絆の歪さを感じずにはいられない。
「チズさん」は15頁ほどの短編で、一人暮らしをしている老婆のチズさんと彼女を世話する「私」の日常、そして彼女たちが起こすある行動のほんの始まりの部分が描かれる。2人の関係や感情など多くの部分が明文化されておらず、読者の想像が委ねられる話となっている。最終部でチズさんの家を抜け出す2人の様子は未来の不透明さはあるものの既存の生活領域を脱する姿には胸のすくような感覚を覚える。
今村夏子の描く3つの「飛び越える」物語は読み手のその時の心情、状況によって何度もその感じ方を変える。飛び込んでくる彼女たちを受け止められるか、はたまた逃げ出したくなるか―彼女たちはあなた自身を覆う常識や境界を飛び越えてその常識の正体は何だ、と本を開くたびに無邪気に問いかけてくる。
書き手 上村麻里恵
こちらの書籍は「BOOK.LAB」にて店舗に入荷し販売中。買取のお持ち込みもお待ちしております。 (電話番号:011-374-1034 HP:BOOK LAB. powered by BASE)
道北の求人情報
名寄新聞を購読希望の方は
名寄新聞 購読料のご案内通信員募集のお知らせ道北ネット ビジネスデータ トップページに戻る